Archives : 9月, 2011

ふるさとへの旅

 

 目薬がとろとろ苦く下り来り

明日九月三十日午後一時半より、
秋田県南秋田郡の井川中学校にて、
「ふるさとへの旅 郷土の偉人・武塙三山に学ぶ」と題し、
講演をすることになりました。
井川中学校はわたしの母校です。
第一部はわたしが話し、
第二部として、
武塙三山原作・青江舜二郎脚色「やけどした神様」
の朗読劇を行います。
今回の上演に先立ち、
青江のご長男で映画監督の大嶋拓さんが、
さらに面白く分かりやすく戯曲を補綴してくださいました。
まさに「やけどした神様」井川中学校特別バージョン!です。
当日の演出も大嶋さんがしてくださいます。
中学校の先生方数名に加わっていただき、
生徒と町民の皆様の前で披露することになっています。
お近くの方は、お気軽にお訪ねくださいませ。
今日の午後、そのリハーサルを行います。
ということで今日から秋田入り、
明日は「よもやま日記」を休ませていただきます。

写真は、なるちゃん提供。

 烏賊入りの煮っ転がしの夕餉かな

 

 多収穫喜ぶ父の声弾む

いつまでつづく残暑かな
みたいな日が続いていましたが、
大型の台風が根こそぎ暑さを連れ去ったかのように、
日に日に気温が下がり、
けさ温度計を見たら、24度でした。
音も言葉も身に染みます。
沖守弘さんの『マザー・テレサ あふれる愛』を読んでいて、
危なく泣くところでした。
家に一人だけでしたから、
泣いても別に問題はないわけですが、
泣き始めの潤とする絞られるような感じがどうも…。
そこを過ぎると大泣きで、
傘を持たずに雨に濡れ始めた体がずぶ濡れを楽しむように、
えい、もうどうにでもなれの開き直りで、
むしろ気持ちいいぐらいですが、
そうなればそうなったで、
一日どうも修復が難しくなりますから、
やっかいなのは心だけではありません。

写真は、なるちゃん提供。

 食べ過ぎの翌朝重く首痛し

社員旅行

 

 秋風や波ひたひたと月の浦

先週二十二、二十三日と東北へ行ってきました。
前日大型の台風が通過した影響で山形新幹線が運休しましたので、
初日の計画を急遽取りやめ、
仙台駅から青葉城址、八木山橋、さらに折り返して、
東北大学を通りひたすら歩きました。
雨の中傘を差し、
一列になって黙々と。
なかなか変な社員旅行ではありました。
夜入ったお店に貼紙がしてあり、
見れば三十二年間続けてきたお店を今月たたむのだとか。
料理を追加注文するのに「おねえさん」と声をかけたら、
「お。いい響きだねえ。もう一回!」と女将さん。
わたしにとっては第二のふるさと仙台の夜が更けていきました。
二日目は仙台駅からバスで石巻へ。
写真家の橋本照嵩さんの案内で一日、
被災地を車で見て回りました。
地震、津波、火災の爪あとが生々しく残っています。
見たことのない光景が現実離れしています。
むしろ夢に近い。
これから、ここから怖い夢に変っていくぞと予感される、
そんな淡く歪んだ光景に近い気がしました。
広い地域にわたって地盤が一メートル以上沈んだ関係からか、
海も川も、陸に対して水位が高く、
この世の光景とも思えません。
ガイド役の橋本さんが口にした、
自然は自ずから自分の遊び場を作っている、
の言葉を噛みしめました。

 かもめ飛ぶ空かたぶきて秋の風

ありがたい手紙 3

 

 遠く来て電車の秋の眠さかな

高橋さんからいただいた手紙の最後になります。
写真集を見るとはなにか、
を考えさせてくれます。
*****************
解体されつつある、また解体されたクジラの肉塊は、この写真集の中ではこの部位はどこだとか言うまでもなく、あるゴロンとした名状しがたい塊として読者の視覚にまっすぐ差し出される。それはクジラの頭部であるとか、尾ひれであるとか特定できる場合もあるが、荒々しく強烈な黒白のコントラストの中から常に未知の細部が迫ってくることで、読者の目は映像に慣れてしまうことができない。何事も体よく理解してしまおうとしがちな視覚の馴致作用は破綻し、目は写真の上を不規則に揺れ動き始める。むしろ、写真のほうが読者をとらえて離さない。解体され切断面が露わになった肉塊もまた一つのまなざしとなる。読者は、事実の記録という写真に課せられた役割を内側から踏み破って、生の根底に横たわる現実が露呈する現場に立ち会っていることを自覚する。どこまでも深く濃い黒が、いたましさを鎮めつつ、その黒の合間から白い光が滲んでいる。厳粛でほのかに明るいこの視覚体験が呼び覚ます感情は、喪の記憶に通じている。
ところが、そうした映像が、なんら声高な訴えとしてではなく、古くから捕鯨を業としてきた人々のごく普通のありのままの日常として、静かに黙々と定着されているところが、この写真集の凄みである。
『九十九里浜』では、漁師やおっぺしの半裸の女たちが、一人ひとり生き生きとした表情を浮かべており、その顔、顔、顔が、正面から、あるはい仰角でアップされて、目にくっきり残るのだが、今回の写真集では、解体作業に従事する人たちの顔は逆光の影になったり、ヘルメットにかくれたりして、あまりはっきりとはしていない。かえって、正面から見た顔よりは、横顔のシルエットが印象に残る。そして顔よりも人々の背中のほうが、どうしたわけか、あとまでずっと胸に刻まれるのである。水揚げされたクジラの様子や解体作業を見守る人々の姿は、遠景に小さく退いている。『九十九里浜』における逞しく朗らかな肉体の大きさは、ここには見当たらない。
解体作業の現場は、おそらく様々な音やにおいに満ちていることだろうが、それはむしろ本を閉じた後に、思い浮かんでくる。それだけ純粋な目の体験に読者は集中させられる。読者はいつの間にか、捕鯨をめぐる論議の囂しさからは離れた場所に立っている。そこでは、人間とクジラとの間に流れている長く大きな時間にこそ、思いを馳せるのである。

本書の終わり近くに鯨塚の写真がある。一目見て無意識に訴えてくるような宗教性に打たれる。長い間、供養を重ねてきた人々の信心が、日向の土のにおいのように、ありありと伝わってくる。光と影の対照はここに至って沸点に達し、羊歯の生える塚の上に散らばった光の斑の輝きは、どこかこの世ならぬもの、昔の人なら浄土と呼んだかもしれない彼岸の世界を、見る者に連想させる。ここではクジラと祖霊の区別はほとんど無くなっているような気さえする。
この写真集におけるように、地に足ついたかたちで、聖なるもの、土地に宿るたましいが示されることは現代の美術では滅多にない。でも、ラスコーの洞窟壁画以来、殺生と供犠と贖いを核として、人類は聖なるものを伝えてきたのではなかったか。宗教性と言えば、水揚げされたクジラや浜に打ち上げられたクジラをとらえた写真のいくつかには、どこか来迎図や涅槃図を連想させるようなところもあった。
勿論、この写真集は、そんな大上段の構えでなく、一人の写真家が本当に興味をもったものを真摯に写した記録であり、ある限定されたテーマを脇目もふらず淡々と追った潔さこそ好ましいのだが、ここに無意識のうちに実現されているものの射程は思いのほか遠いと言えそうである。
長らく人間は、あたかも一方的に自然をコントロールできるかのような錯覚に陥ってきた。その錯覚の中で人間の像は等身大をはるかに超えてしまっている。ところが、この写真集をじっくり見ていると、人間の等身大がいかなるものかが自ずとはっきりしてくるのである。
本書の巻末に、ここに収められた記録が「東日本大震災の影響などで、現状とは異なる部分」がある旨の短い注記を目にしたとき、この写真集が何も意図していたわけでもないのに、時代の大きな流れに向かって静かに対峙しているように感じられてきた。自然保護の観念はあり余るほどに持っていながら、科学技術の進歩に増長し、天災と人災の区別も判然としないまま、毎日漠とした不安を抱えて生きている日本人にとって、この写真集は自分の顔を映すよい鏡になりそうである。それが、いま、機が熟して刊行されたことは、出版に携わった人々の思いの深さの証しでもある。

切り出されたクジラの肉をもらいに行列する人々の背中。バケツに入れ、家路へとリヤカーを引きながら、子どもは喜々として振り返る。
どこか無頓着なそのいくつもの背中を、私はしっかり目に焼き付ける。
給食のとき、銀色のトレイにたくさん並んでいたクジラの肉。昼の時間、小学校の大きな窓から射していた光がかすかに甦ってくる。海にいる大きな黒い動物と目の前の肉は頭の中では結びついている。それがどこからどのようにやってきたのかは思い浮かべもしないまま、私は無邪気に口に運んでいた。
小学生の私の背中は、いまはうまく想像できない。だが、この写真集の中の人々が黙ってさらしている背中は、きっと私自身もいま、さらしているに違いない背中だ。私はそれをもう一度見る。そうして私は自分もまた殺生と無縁ではいられない人間であることを思い、その分際をわきまえていなければならないと切に感じる。同時に、子どもの頃の自分とクジラとの結びつきに小さな誇らしさをも自覚する。この写真集を見ているうちに逆になげかけられた遠くからのまなざしに、辛うじて私はその小さな自覚をもって応えるしか手立てがない。
けれどこの無言の問答には不思議な安らかさがある。人間が生きていく営みを底まで降りていってつかんだときの、しっかり足下が見えたという実感、着地感。それが私を安堵させるのだ。
本を閉じた後も長く眼底を去らない黒白の残像を追いながら、いのちによっていのちが養われていく、その目には見えない働きの豊かさを深く感じ、私はホッと息をつく。そうして声にならない励ましをもらったように、あらためて、生きることの原点を見つめ直そうという気持ちになれるのである。

ありがたい手紙 2

 

 パソコンも車も飛びし野分かな

引きつづき高橋さんからいただいた手紙を掲載します。
また、先週十六日の『週刊読書人』に、
「小関与四郎写真集『クジラ解体』刊行に寄せて」
が掲載されました。
コレです。
作家の山本一力さん、詩人の佐々木幹郎さん、
ジャーナリストの小関新人さんが原稿を寄せてくださいました。
あわせてお読みいただければ幸いです。
*****************
『クジラ解体』というタイトルから、水揚げされたクジラが食品など様々な用途に応じて解体され、切り崩されていく過程をつぶさに記録した写真集なのだろうと思っていた。勿論あの『九十九里浜』の写真家のことだから、客観的な記録というだけでなく、クジラの解体作業に従事する人々の姿が生き生きととらえられ、人と動物との真剣な交渉が威厳すら伴って提示されるに違いない。そんな予想を抱いていたのだが、見終わった後、どうもそんな簡単なものではないという気がしてきた。
クジラの巨体の傍らで、せわしなく立ち働く人間の姿は、小さいけれど力強く、その労働には活気が満ちている。写真家は、誇張やセンセーショナリズムには黙って背を向けて、日常に近い生活の現実として、クジラ解体の様子を記録してみせた。人間の営みをまっすぐ、かつ、おおらかに見つめ、原初の輝きを取り出してくる写真家の目線。被写体にぐいぐい迫りながら目前の光景をダイナミックにとらえてみせる写真家の膂力。『九十九里浜』で十分堪能できたこの写真家の持味は、今度もいかんなく発揮されている。
「ありのままの姿を正面から見据えて記録するのが私の信条」だと写真家は本書の序文で語っている。(この文章は、小関氏の人間を感じさせるもので、だ・である調とです・ます調の間を揺れ動くその波動のような変化が面白い。)「『事実は事実』の記録として残し伝えたい」という主張は、それ自体はよく納得できるのだが、にもかかわらず、この写真集は、クジラの解体作業を写真による一種のルポルタージュとして克明に追ったものというだけでは足りない何かを読者に感じさせる。
たしかに、この写真集は、記録的な価値においても高いものである。捕鯨制限によって現在では行われていないマッコウクジラの解体作業を今から25年前に和田浦の現場に取材し撮影した写真が収録されていることをはじめ、捕鯨の是非を論ずる前に、何が行われてきたのかを知るための記録として、貴重な資料を提供している。
しかし、ルポルタージュなら、写真を通じてもっと多くの情報を伝えてもよいはずである。そのためになら、別の方法で(例えばカラーで、もっと接写を多くして、プロセスごとに・・・)撮影することもできるはずである。ところが、この写真集の著しい特徴は、非説明的である点にある。
それは読者に不親切ということではない。本としては、捕鯨をめぐる現状の簡潔な要約が帯に記され、また巻末には捕鯨論議の経過を俯瞰して読者の理解を助ける解説文も付されており、読者を十分配慮したものとなっている。巻末にあらためて収録作品を一覧化し、いくつかの写真には撮影内容についての解説も付いている。
そうでありながら、ここに収められた写真そのものは、ときに意味とか文脈を剥ぎ取られた裸の現実として、見る者に迫ってくる。日常の意識の中にせり上がって来る言葉は一旦はじき返され、不用意に言葉を発すれば嘘になりかねない失語状態を受け容れながら、まずはじっくり作品を見つめるしかないという気分にさせられる。そこで、地べたに座り込んで何度も繰り返し頁を繰る。そうするうちに、この写真集には、被写体を鮮明に写し取ろうとする目の働きとは違った働きがあることに気づく。それは傍観しながら記録する目であるより、狩猟者のように動いている目である。
過程の記録なら、写真家の存在は消してしまったほうがよい。それであたかも客観性が保証されるかのように。ところが、この写真集は、目の前の現実に価値判断を交えて潤色しないという意味では客観的であるが、フィルムに定着された画像には、撮影している写真家の息遣いや胸の高鳴り、すばやく反応する肉体、未知の映像を予感して膨らむ血管など、言わば獲物を追う人の静かな熱と動きの跡が、いたるところに感じられるのである。中にはまさに撮影中の写真家自身の影が、写りこんでいる写真もあって、とても象徴的に思える。写真家は目前の現象の外にはいない。
冒頭の数頁を見ていると、拡大され粒子の粗くなった写真が、ときに微妙にピントのブレを生じていることに目を引かれる。映像が焦点を結んで固まってしまわずに、わずかな揺れをはらんでいる。本書を開くと、滑らかな冷たいレンズを感じるよりは、画像のザラっとした肌合いの中から、かすかな熱が伝わってくる。
クジラ解体の写真に入る前に、捕鯨が古くから行われてきた土地の景色が紹介される。この写真集は、構成がすばらしいのだが、そのことは、この最初の数頁でよくわかる。空中に浮かぶ大きな親子クジラの像。視界を圧倒しながらもどこか虚ろな感じが漂ってきて、この虚ろさもまた捕鯨の町の現実の一部なのかと問いたくなる。息をつめて頁を捲ると、無数の皴が刻まれ複雑に折り重なる岩場の向こうに海や入江が広がる。実際には行ったことがないのに、夢で何度も見てすでによく知っている風景のような気がしてくる。見ているうちに、思いがけず古い時代からの便りを受信したような心持で、ふっと気が遠くなり、胸の内がザワザワし始めた。白黒のせいか、全体に過去の雰囲気を帯びていて、収録されている写真の多くが、ここ1,2年の比較的最近のものだという事実が意外に感じられるほどであった。
この後、町の中、海へ向かう路地の写真が続き、映画の導入部のように、読者をクジラの水揚げ現場へといざなう。この写真もまた揺れをはらんでいるが、それが読者である自分自身もこの道を小走りに進んでいこうとしているかのような感覚をもたらす。そこには出会いの予感がある。巧みな写真構成が心地よい緊張感を持続させる。

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三浦衛(みうら・まもる) 春風社代表にして自慢大王&悪ノリ大王。体調のいいときは自らを天才と称し、不調の折はちりあくたにも劣るヤツとしょんぼり。

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三浦衛の本


『カメレオン』
 三人ときどき声にならぬ声を洩らし/とろけ とろけ 唾までとばし/クヂるとナメるとネヂるとチョす…(「鳶」) 自在に色を変え、不意に突き刺さる、軽妙なことばの戯れ。秋田方言満載の詩集。本文は金属活字による活版印刷。


『マハーヴァギナまたは巫山の夢』
 三平佐世夫は、千一夜の夢うつつで女と戯れ、印度に旅し、睾丸を抜かれ、鰐を飼い、横浜を彷徨う。言語の崖っぷちを綱渡りする、めくるめく冒険。本文活版印刷に美麗造本を施した平成の大奇書。


『父のふるさと』
 父の目に映じた故郷の風土、ひと、くらし、農事を、愛惜をこめ描きだす。本文は金属活字による活版印刷。「身と蓋函」に納める。


『出版は風まかせ』
 横浜の出版社「春風社」社長が本づくりと会社経営にまつわるエピソードを豊富におりまぜ、創業から10年を振り返る。