「鬼平」の「い」

 這ひ上り斃れし貒猯(まみ)を緑抱く
休日のひそかな楽しみのひとつが
池波正太郎の『鬼平犯科帳』を読むことで、
きのうは20巻目の「顔」を読みました。
こんなはじまりです。
若き日の長谷川平蔵が通っていた道場の先輩で
井上惣助という人がいました。
ある事件に巻き込まれたかして、
切腹を余儀なくされたその人を
街歩きの途中、何十年ぶりかで
編み笠の中からはっきりと目にした…。
ね、先を読みたくなるでしょ。
というようなわけで、惜しむようにして
少しずつ味わいながら読んでいます。
ところで、いまは慣れてしまいましたが、
はじめのころ、
とても違和感のある言い回しがありました。
それは、ふつう「〜いて」という場面で
池波さんは「〜い」と、「て」を省きます。
たとえば、昨日読んだ「顔」にもすぐ出てきました。
「通りの向うには茶店がたちならんでい、その背後には、高輪の海(江戸湾)が午後の日ざしに光っている。」
これがもし、
「通りの向うには茶店がたちならんでいて、…」だと、
なんだかゆるく間延びした感じさえします。
池波さんは、名文家として夙に知られた方ですから、
つかわなくていいことばは極力つかわないように
していたのでは、と想像します。
くらべてみると分かります。
今回の「通りの向うには茶店がたちならんでい、…」も、
やはりこのほうが緊張感をはらみ、
なにか起きそうな気配がただよってくるではありませんか。
 貒猯(まみ)死して緑更けゆくカッチ山

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横浜観光!?

 春山にくたり斃れし狸かな
テレビのニュースでもやっていましたが、
信号機故障とかで、
JR横須賀線上りの電車が止まってしまい、
仕方なく保土ヶ谷駅東口から
桜木町駅行きのバスに乗ったのが9時22分。
歩けば40分ほどのところだから、バスならせいぜい20分。
と、早とちりしたのがそもそもの間違い。
なんだか遠くのほうへ遠くのほうへと
バスは走って行き、
港の見える丘公園まで上ったりし、
時計を見たら、すでに針は10時を回っていました。
桜木町駅に着いたのが10時20分。
ほぼ1時間バスに乗っていたことになります。
210円であんなに車窓からの横浜を見れたのだから
良しとしますか。
 訪ね来て斃れし貒猯(まみ)に緑射す

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アイコ採ったどー

 登りゆき山ふところのアイコかな
連休期間中、秋田へ帰り山菜を採りました。
舗装されていない山道の
奥までクルマで乗り付け、
そこから険しい山ふところに
抱きつくようにして這い登っていくのです。
山菜といってもいろいろですが、
お目当てはなんといってもアイコ。
山菜の女王と呼ぶひともいるぐらい。
女王様らしく、トゲがあって
なかなかさわれません。
素手でさわろうものなら、
ちくちくしてひどい目に遭います。
軍手が欠かせません。
木々の間から漏れる光を浴びて、
繊毛のようなトゲがきらきら輝き、
それはそれはきれいです。
ことばもありません。
幼なじみでわたしより五つ上のヒサオさんは、
アイコを採るために
わざわざ神戸からクルマで駆けつけ
連日山に入っていきました。
 屍を春山に敷くタヌキかな

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山菜シーズン

 西浦湾春白浪の立つ見えて
大型連休といって喜んでばかりも
いられない状況ですが、
弊社は明日より暦どおりのお休みをいただきます。
ふるさと秋田へは三日に行きますが、
この季節のたのしみは、なんと言っても山菜採り。
いろいろある中で、
思い出もあり、食べて美味しく、
春山菜の王様とわたしが勝手に思っているのは、アイコ。
ほんとうに、愛子様と呼びたくなるぐらいです。
秋田では、アイノコともいいます。
シソみたいな形をしています。
葉も茎もギザギザの棘がいっぱいで、
さわるとチクチク痛いのですが、
そのチクチクは、山の空気や土の香り、
緑を分け入ったところに突如現れる
清冽な滝に連なっています。
滝といえば、後藤夜半の有名な
 滝の上に水現れて落ちにけり
がありますが、この句に初めて触れたとき、
山歩きが何よりも好きだった祖母に連れられ
アイノコを採りに行った時間が
ありありと思い出されました。
 藪払ひ時を告げるやホーホケキョ

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