こころの形、本への愛着

 五月帰郷父のうなじの白髪かな
このごろときどき、
本てどういうものかなあと考えることがあります。
自分で本をあまり買わなくなっているのに、
一方では、本を作って売ることを考え、
売れ行きがどうとか、日々、頭を悩ましているわけです。
こういうの、矛盾というんでしょうね。
パソコンが日進月歩で便利になり、
わたしみたいな機械音痴でも、
パソコンに触らぬ日はありません。
それじゃあ、本はすべてパソコンに
取って代わられるかといえば、
必ずしもそうとばかりは言えないのじゃないかと、
出版社の人間としては、願いも込めて、
思うわけです。
ひとつキーワードは愛着心だと思うわけですね。
執着心といってもいいかもしれません。
たとえば、なにかのきっかけで一冊の本を読んだとします。
読む前は、まだ内容を知りませんから、
タイトルやデザインや帯の惹句に
引かれてのことかもしれません。
それが、一旦読み終わったとなると、
なんだか読む前とちがって感じられてきます。
感じられませんか?
同じ本なのに、
そのなかに今の自分の感情や感動や悩みや願い、
ひとことで言って
こころが封じ込められているような気がし、
撫でさすりたいような気持ちになります。
こころにさわることはできないけれど、
面白く、感動して、考えながら、読んだ本に
読後さわってみると、
自分のこころに触れたような錯覚に陥ります。
こんな物言いは感傷的にすぎるのかもしれません。
しかし、人間はそれほど
合理的な生き物でしょうか。
パソコン(ケータイ)で何か面白く、
感動し、考えながら読んだとして、
読後パソコン(ケータイ)を撫でさすりたくなるか
といえば、疑問です。
パソコン画面(ケータイ画面)で読み、
愛着のこころを投影する何物もないほうが
潔いのかもしれませんが、
やはりちょとさびしい気もします。
格好をつけていえば、不合理ゆえに本を読む、
こういうことかなあと、このごろ思います。
と、つらつら思ったりしますが、
パソコンやケータイを撫でさする人がいても
全然おかしくないし、
それが一般的になる日が来るのかなあ。
ひょっとして、もはやそうなっているとか。
 田の蛙夜通し鳴くか五月帰郷

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