「思う」といってもただ漠然と「思う」わけにはいかない。整序されないながらも何らか言葉によって「思う」か、あるいは切れぎれのビジュアルなシーンを「思い」浮かべるか。だから「思う」はどこか妄想チック。それに比べて「書く」ことは、書いた分だけ安定するし安心する。どんなに妄想チックで恐ろしい不可解な主語であっても、がんばって述語を見つければ、交換可能な通貨を見出せたようで気持ちが落ち着く。述語だけでなく、相応しい修飾語があればなおさらだ。
朝起きてこれを書くことを深く考えずにやってきた。今もそう。会社のホームページだし、あまりプライベートに偏らずにと少しは意識しながら。ウチらしさがどこか伝われば、ということで続けている。しかし、このごろあることに気がついた。私事で恐縮だが、机に向かいわけもわからず、いや、わけがわからないからよけい妄想に押し潰されそうになっているとき、頭に浮かぶ言葉の意味を考えながら単語を一つ一つつなげて行くこと、すなわち文を書くことは、朝の陽気に触れるようで気持ちよく、爽やかな気分にしばし浸れるということに。立ち往生している場所からとにかく一歩を踏み出すようなものだ。そうすると今度は足裏が気になる。
われらが社屋は横浜市教育会館の三階にあり、かなり広い立派なベランダがついている。もったいないので、盆栽や観葉植物を並べて楽しんでいる。先日、春風社装丁室の愛ちゃんが、空いている鉢にハーブの種を植えたらしく、よく見ると、細かい、赤ん坊の産毛のような芽が出ている。と思いきや、日を重ねるたびに緑の色がハッキリしてきた。その若芽を見ていると、なんだかウキウキする。
クレソンを植えようか。パセリとかさ。場所がこんだけあるんだからジャガイモやニンジンやトマトを植えようよ。ベランダがダッシュ村っていうのも面白いじゃねえか。お弁当のおかずにもなる…。そうですねそうですねそうしましょう。みな、ノリがいい。どうせだから、植物だけじゃなく動物も飼っちゃおうか。牛や馬はさすがに飼えないけど豚や鶏ぐれえなら飼えるぞ、こんだけの広さがあれば。あっちの、富士山が見えるほうに豚小屋を置くのさ。開洋亭の側に鶏小屋。驚くぞみんな。他の会社の人たちがうるさく言うようなら、ベランダで育てた野菜をお裾分けするさ。それで和解。だってそのほうが絶対楽しいもの。それから、チャボも飼っちゃう。ベランダから、せーのでチャボを放り投げたら向こうの職業訓練校の屋上に降りたりしてさ。おもしれえじゃねえか。それから孔雀も飼う。孔雀がベランダの上でバッと羽を広げたら道行く人たち驚くだろうな。なんだここは、ビルの動物園かよ…。想像するだけで楽しくなってくる。天気はいいし。
夜、小料理千成で久しぶりに獺祭(だっさい)を飲み、ほろ酔い加減でS字カーブの坂をとぼとぼ登っていたら、地面に小さな蟹が落ちていた。
はて、乾きものの蟹を食べながら歩いていた酔っ払いが袋から落としたものか。それにしては色が変。乾きものならもっと赤いはず。あやしからんと思って、靴をそっと近づけてみると、ほんの微かだが動いた。小さくても蟹だから横に。わたしはちょっと感動してしゃがんで蟹を捕まえた。ハサミでわたしの手の指を挟むのだが、弱っているのか、さほど痛くはない。空には月が煌煌と照っている。
家に帰り、台所の上の戸棚からガラスのボールを出して水を5分の1ほどと塩を大さじ一杯ぐらい入れて掻き混ぜた。なにかつかまる石でもあればいいのだが、家の中のこととて石などない。いまさら外へ出るのは億劫だ。なにか替りになるものは? 石替りの重い箸置きを塩水につけたら、にわかにガラス張りの磯が出現。蟹は口から泡を吹き少しずつ元気を取り戻していくようなのだ。
朝5時に目が覚め、台所に飛んでいった。ん!? ん!?????? いない!!!!!
ガラスのボールをどうやって飛び越したのか。そんなことよりどこへ行ったのだ。まな板の裏、冷蔵庫の下、ゴキブリホイホイの中、まだ洗っていない茶碗の後ろ、廊下、玄関、洗面所、トイレ、蟹が隠れていそうな場所をあちこち探したがどこにもいない。あきらめかけた頃、ふと思いつき、シンクのコーナーにある生ゴミ用ポケットに手を入れたら指が挟まれた。なんだ、ここにいたのか。見れば、ネットに細い脚がからまり、離れた両目を思いっきり天井に向け恨めしそうにこちらを見ているではないか。なんだか哀れになった。それにしても、よくぞあのガラスの壁を攀じ登ったもの。あらん限りの力を振り絞り滑る足をこわばらせガラスの縁に足がかかったときの蟹君の喜びを思い、わたしはまた少し感動した。その喜びも束の間、シンクの暗い穴にドドーッと落ちたときの蟹君の落胆やいかに。落ちる瞬間蟹君の見たものを、今度は少しの感動もなくわたしはただ想像していた。
鎖骨の状態を診てもらいに仙台へ。レントゲン写真を撮った結果、折れたところが近接し経過は良好とのこと。新しい骨は六週目くらいから出てくるとか。ふむ〜。なんだか木みたい。
新幹線での行き帰り、田村隆一『自伝からはじまる70章』(思潮社)を読む。副題に「大切なことはすべて酒場から学んだ」とあり、肩の凝らない文章で、途中居眠りもしたから一気に読むことはなかったが、それでも横浜に着く頃には一冊読み終えた。
田村さん曰く、酒場に音楽は要らぬという。カラオケなどはもってのほかと手厳しい。カラオケがないではわたしなど酒を飲む楽しみが半減するから、田村さんが生きていたらお呼びじゃないということになる。それにしても楽しく酒を飲むというのは難しい。飲むほどにどうしても地が出てきて大声になったり要らぬことをベラベラしゃべったりと無くて七癖が出る。これなども田村さん流にはもってのほかということになるのだろう。上手に酒を飲めるのが大人。まずは飲みすぎないことか。
『宗像教授伝奇考』第六集の途中まで読みすすむ。面白い! 博覧強記の民俗学的知識に裏付けられた謎解きに現在の人間ドラマが重なるから良質の短篇になる。また、各篇に登場する女性が美しく儚げで魅力的。ちょっとおっちょこちょいなのも可愛い。この女性の形象は作者・星野氏の好みによるのかもしれない。
何集目かの解説にもあったが、主人公の宗像教授は文化の伝播が国境を超えてなされたことを想定し、よく口にする。学生のころ教授に教えてもらったある女性が、謎解きに向かう教授に同行しながら、「教授はすぐ外国から来たというんだから…」と感想をもらす。今なら、国境が定められ、パスポートがなければ境を越すことはできないが、そもそも境は人間が定めたものだ。もとから国境などというものは存在しなかった。
時間は今と比べられないぐらいにゆっくりと、しかし、水の低きに就くがごとくに自由に広がるべきところに色々なものが広がった。シルクロードはその代表的な例に過ぎないのだろう。星野ワールド満喫! 読み切るのが惜しい。
久しぶりに止められないマンガに出くわした。『宗像教授伝奇考』がそれ。作者は星野之宣(ほしの・ゆきのぶ)。異端の民俗学者・宗像伝奇(むなかた・ただくす)が各地に伝わる伝説の謎に挑むというもの。
このマンガと作者を教えてくださったのは佐藤文則さん。長くアメリカにおられ、フォトジャーナリストとして名をなし、『ハイチ圧制を生き抜く人びと』が岩波書店から出ている。飯島耕一さんの詩集『アメリカ』の装丁と扉に使われた写真を撮った方でもあり、今回、小社から刊行された飯島さんの傑作短篇小説集『ヨコハマ ヨコスカ 幕末 パリ』にも佐藤さんのカッコイイ写真を使わせてもらった。
打ち合わせで来社された折、なんの話からそんなことになったのか思い出せないが、面白くて止められない本があるとおっしゃるから、なんの本ですかと尋ねて教えてもらったのが上の本。宗像伝奇の名が天才民俗学者・南方熊楠(みなかた・くまぐす)から取られたことからしても、このマンガの心意気が知られようというものだ。
民俗学というと、まず柳田国男のあの独特の眠くなる文章を思い出すが、星野氏のマンガは民俗学って面白いじゃん!て思える目から鱗の内容で、謎解きに向かう宗像教授は超カッコよくスキンヘッドなのも好ましい(なぜ好ましいか、黙、分かる人には分かるということで…)。第一巻、白鳥伝説が残っている土地と鉄の産地がほぼ重なることの考察なんて、もうワクワクドキドキもの。きょうも続きを読もうっと。
『はじめよう! 生きがいとしての英語』の著者・石田正先生来社。昼食をご一緒させていただきながら色々お話をうかがう。
驚いたのは、一昨日の夜、いきなり奥様が「わたし、本を持って関西の友達に売ってくるわ」とおっしゃり、昨日、車に70冊積んで出かけたとのこと。その行動力に(被ってないけど)脱帽! 一緒に居合せた専務イシバシ、武家屋敷ノブコも「凄いですねぇ〜!」と、しきり。本を売るということを御客様から改めて教わった次第。そうなんだなぁ。一冊一冊、この心がけをつい忘れてしまうのよ。
先生いわく、「ただ教えているときは分かりませんでしたが、本を出してみて、いかに日頃のつきあいが大事かということが身に染みて分かりました。ありがたいことです」先生、少しはにかむようにして、さらに「それと夫婦のつきあい…」なるほどねぇ〜。そうだよなぁ〜、旦那さんの本を「わたし売ってくる」とはなかなか言えないものなぁ〜。
食事を終え野毛の交差点で別れぎわ、先生は最後におっしゃった。「自分だけの楽しみというのは限度があります。自分がなにか人様の役に立つ、喜ぶ姿を見るのは本当にうれしいものです」本づくりの喜びをこちらも味わわせていただきました。ありがとうございます。
