蟹君の空

 夜、小料理千成で久しぶりに獺祭(だっさい)を飲み、ほろ酔い加減でS字カーブの坂をとぼとぼ登っていたら、地面に小さな蟹が落ちていた。
 はて、乾きものの蟹を食べながら歩いていた酔っ払いが袋から落としたものか。それにしては色が変。乾きものならもっと赤いはず。あやしからんと思って、靴をそっと近づけてみると、ほんの微かだが動いた。小さくても蟹だから横に。わたしはちょっと感動してしゃがんで蟹を捕まえた。ハサミでわたしの手の指を挟むのだが、弱っているのか、さほど痛くはない。空には月が煌煌と照っている。
 家に帰り、台所の上の戸棚からガラスのボールを出して水を5分の1ほどと塩を大さじ一杯ぐらい入れて掻き混ぜた。なにかつかまる石でもあればいいのだが、家の中のこととて石などない。いまさら外へ出るのは億劫だ。なにか替りになるものは? 石替りの重い箸置きを塩水につけたら、にわかにガラス張りの磯が出現。蟹は口から泡を吹き少しずつ元気を取り戻していくようなのだ。
 朝5時に目が覚め、台所に飛んでいった。ん!? ん!?????? いない!!!!!
 ガラスのボールをどうやって飛び越したのか。そんなことよりどこへ行ったのだ。まな板の裏、冷蔵庫の下、ゴキブリホイホイの中、まだ洗っていない茶碗の後ろ、廊下、玄関、洗面所、トイレ、蟹が隠れていそうな場所をあちこち探したがどこにもいない。あきらめかけた頃、ふと思いつき、シンクのコーナーにある生ゴミ用ポケットに手を入れたら指が挟まれた。なんだ、ここにいたのか。見れば、ネットに細い脚がからまり、離れた両目を思いっきり天井に向け恨めしそうにこちらを見ているではないか。なんだか哀れになった。それにしても、よくぞあのガラスの壁を攀じ登ったもの。あらん限りの力を振り絞り滑る足をこわばらせガラスの縁に足がかかったときの蟹君の喜びを思い、わたしはまた少し感動した。その喜びも束の間、シンクの暗い穴にドドーッと落ちたときの蟹君の落胆やいかに。落ちる瞬間蟹君の見たものを、今度は少しの感動もなくわたしはただ想像していた。