永遠の現在

 大学を出てすぐに勤めた学校を三十で辞め、その年の四月から東京の出版社に入ったのだが、その間の休日をつかって小金を稼ぐべく、浦和の塾で二週間ばかり講師を務めたことがあった。担当は社会科、十代の若者数名を相手にプリントの答えを解説しながらすすめる授業で、いたって楽な仕事だった。いくらもらったかは忘れた。
 教師待合室として小さな部屋をあてがわれたが、そこで理科を教える初老の男性と知り合った。高校で理科を教えていたらしく、定年で辞め、今はそこの塾で働いているのだった。名前も風貌も忘れてしまったけれど、二人でお茶を飲みながら、なんの話からそんなことになったのか、三浦さん、あなたぐらいの年齢では、わたしの時間など止まっているように見えるかもしれませんね。でも、そんなことは決してありません。生きているということは永遠の現在です…。悩みもあれば苦しみもあるとことばを継いだようにも思うが、それは演歌好きのわたしの創作のような気もする。定かではない。それはともかく「永遠の現在」、初めて聞くことばであり、ふつう口頭では言わない(だろうと思われた)ものだけに、やけにハッキリと記憶している。わたしの転機について話したからそういう感想をもらしたのか、彼自身の境遇についてのコメントだったのかはわからない。ただ、年齢を重ねても究極の問題が解決されるわけではないとぼんやり考えていた。小学校の理科教室に掲げられていた「真理探究」の文字が空々しく霞んで見えた。