天気がいいから、今朝は布団を干した。布団叩きでバンバンやるのも程ほどにしないといけないそうで。干した布団にくるまり匂いを嗅いでいるうちに時間がなくなった。ヨダレまで出て、要するに、眠った。今日はこれから新宿まで行ってきます。
会社創業の年に始め、翌2000年に第1回配本を刊行した『新井奥邃著作集』がやっと第9巻まで来た。本巻としてはこれが最終となる。別巻には、キーワード索引、聖書との対照表、補遺、墨蹟等を収めることになるだろう。
第1回配本分の第2巻が幾つかの新聞や雑誌に取り上げられ時、「この全集が完結したら大変なことだ」と褒めてくれた書評子がいた。その後、その書評子が、どういう理由だったか詳細は分からぬが亡くなった。街の公園で発見されたと聞いて、彼とは直接の縁はなかったけれど、何が何でも完結させねばと発奮もし、前途多難を予感した。
もう一つ、思い出すのは、生前の新井を知る最後の生き証人・工藤直太郎氏に、第2巻のゲラをお持ちしコメントをいただこうと伺ったその日、数時間の差で挨拶できずに氏が亡くなられたことだ。生死のことは人知を超えていると思ったし、また、氏が全身全霊をもって『著作集』刊行を後押してくださったようにも感じた。
本当は、ぼくはこの仕事に相応しくないのだろう。卑下して言うつもりはないが、自分の地金が年と共に少しずつ見えてくるにつれ、また、編集を通じて直に新井の文に触れる度に、ますますそう思う。若気の至りで始まった企画かもしれない。しかし、若気も、ある場所では用いられるかとみずからを慰め、何よりも、多くの有り難い縁に支えられてここまで辿りついた。エネルギーを振り絞り、全巻完結の務めを果たさなければならないと思っている。
来年のNHK大河ドラマは『義経』。総指揮を執るのは黛りんたろうさん。小社から刊行予定の『大河ドラマ「義経」が出来るまで』の著者でもある。
本のなかで、大河ドラマがどうやって出来てゆくのか、何を大事に演出しようとしているのか、ドラマづくりの秘密が明かされることになる。臨場感たっぷりの原稿が毎日のように寄せられているが、直近の原稿には、自害を決意した常盤の、死から生への転換の場面を、言葉でなくいかに表現するかの工夫が書かれており、その演出の妙に唸った。
第1次のロケが終わり、今はスタジオ収録に入っていて、原稿から察するところ、息つく暇もない。その間隙を縫って、キラキラする原稿が届く。毎回ワクワクもので読んでいるが、改めて、黛さんの純粋さにハッとさせられる。どうにかしてこの世界、この美しさを演出するのだ、の気迫に満ちている。
かつて三島由紀夫は、いまの時代、もはや英雄的な死などあり得ないと喝破したが、『義経』では、火花を散らして鬩めぎ合う生と死の狭間で浮かび上がってくるものが表現されることになるだろう。
男の物語であり、女の物語である『義経』、役者はもちろん、黛さんはじめスタッフ一同の心意気が凄まじい。見えないものが人のこころを動かしている。原作は、宮尾登美子さん。
塞ぎの虫を抑えながら、夜、行き付けの寿司屋に行った。店長に「なんか、お疲れのようですね」と指摘され、「え、まあ、そうね、すこし…」と馬鹿みたいな返答をし、余計落ち込んだ。
すぐ隣の席に、もうだいぶ涼しくなったというのに、チェックの半袖シャツを着た、生きのいいお兄さんが座った。よほど寿司が好きらしく、ガラスケースに入ったネタを隅から隅まで丹念に眺め、まず、「すみません、モンゴゲソとコハダ、ください」と言った。「すみません、モンゴゲソは終わっちゃったんですよ」と店長。「そうですか。なら、普通のゲソをください」。
とにかく生き生きしている。どうしてそんなに生き生きしてるのさ、と、羨むぐらいの生きの良さだ。
さらに驚いたのは、寿司を箸で摘まもうとするときに、自分の口元まで箸先のようになること。ツーと箸を伸ばすとき、口元もツー。思わず見てしまう。そんで、いよいよ頬張ったなと見ているや、さもさも旨そうに、ふんふんと頷いている。それが、一度や二度でなく、毎度のことだから驚く。頬張るたびに、何を納得するのか、ふんふん、ふんふん、ふんふん、ふんふん、会津若松の張子の首振り牛、赤べこを思い出す。
彼が最も首を振ったのが、トリ貝だった。もう、ふんふんふんふんふんふんふんふん。あんまり頷くもんだから、そんなにトリ貝が旨いのかと少々癪に障り、おらも頼んでみることに。
「トリ貝!」
たしかに美味い。が、首を十回も十三回も振るほどかよ、とも思った。
なので、後は、あまり彼のことは見もせず気にもせず、こちらはこちらで頼むことにした。好きなトビッ子を頼み、プチプチ鳴らして食っていたら、横で、「すみません、ぼくにもトビッ子ください」と。
あ、この野郎、おらの真似したな。ま、いっか、と思って、見るともなく見ていると、軍艦巻きのトビッ子を醤油皿に大事そうに運んでいる。トビッ子が少々皿にこぼれて落ちた。どうするのかと思っていたら、これまた大事そうに拾い上げ、軍艦の上に乗せた。それからおもむろに頬張り、やはり、頷いた。頷きの回数はトリ貝に劣った。
それから、彼の動作で不思議に思ったことがもう一つあった。
その寿司屋では、2コずつを小さなゲタに乗せて客に出すようになっている。ガリはそれとは別に皿に入れて供される。赤べこの彼は、皿からいちいちゲタにガリを乗せている。それだけでも目を見張ったのだが、さらに、ガリを箸で摘まむとき、箸を逆さにして頭のほうで摘まんだ。それ、どういう意味があるのさ、と、思った。
箸を逆さにするのは、複数いて、同じ皿から分けたり取ったりするときにやる動作ではないのか。自分だけで食べるのに、箸を逆さにする謂れがない。変な奴だよ。でも、ま、こいつにはこいつの流儀があるのだろう。おらがとやかく言うことではない。
それにしても、あの兄ちゃん、耳までピンと立って、本当に生きが良かった。
ここのところブルースばっかり(おっとイケねえ、原語に近くはブルーズだった)聴いているが、このオッさんたちの格好良さったらない!
ハウリン・ウルフなんてオッさんは、まず、顔がデカい。ジャケットから、はみ出てるもん。そんでもって、あの声。名前の通り(!?)狼の声がハウリングを起こしているようなダミ声で、よくあれで声つぶさないかと思う。
サン・ハウスってオッさんは、なかなか渋い。が、かつてドイツで演ったライブ映像というのを見たら、ブリキで出来たようなギターを、弾くと言うより、デカい指でバンバン叩くみたいな感じで、まるでチンパンジーが玩具で遊んでいるみたいだった。その感想を若頭ナイトウに言ったら、「サン・ハウスをつかまえて、チ、チンパンジーなんて、シャチョー、それは…」と絶句していたが。
マディー・ウォーターズなら前から知っていてCDも持っている。タワーレコードでもらったブルーズの解説書によれば、マディー・ウォーターズがブルーズの表番長で、ハウリン・ウルフが裏番長なんだそうだ。
表と裏の違いはあるが、この人も顔がデカい! 昨日も出社前にタワレコのブルーズのコーナーに寄った。マディー・ウォーターズの「エレクトリック・マド」というCDがあって、輸入盤と日本盤が出ていた。もちろん値段の安い輸入盤を買った。参考までに日本盤も手にとって裏のジャケットを見たら吹き出した。おらの声はデカいので、またまた、ほかのお客さんの顰蹙を買ってしまった。だって、あの写真見て、笑わない人がいたらお目にかかりたいぐらいの可笑しさなんだって。皆さん、CDショップに寄ったら絶対見てください。本当に笑えますから。
この「エレクトリック・マド」というアルバムは、ブルーズに多大な影響を受けて登場したジミ・ヘンドリックスから、今度は逆に、ブルーズの大御所たるマディー・ウォーターズがジミ・ヘンドリックスの格好良さに痺れ、「おらもエレキを演るだ! 演りてえ!」って言ったかどうかは分からないが、どうも、そうやって出来たアルバムらしい。
そんで、例の写真というのは、ジミ・ヘンドリックスばりに長い鉢巻(は、してなかったかなあ?)をしたりして、格好はもうジミ・ヘンドリックスそのもの、当人相当ご満悦(そういう表情をしている)らしいのだが、なにせ顔がデカい! 半端じゃなく、デカ過ぎ。黙って見ていられない。笑わずにいられない。
笑い上戸の若頭ナイトウが見たら、涙流して笑うだろうなあ。
ブルーズマンたちの個性の発揮は、ほんと、半端じゃない!
小社がある紅葉ヶ丘は、なかなかいい場所です。改めて言うこともないですが、越してきた頃とはまた別の感興が湧いてくる。
丘の上にあるので、駅から歩くのには少々きつい。でも、日により、季節によって、空気の色がちがい味がちがう。丘の上から、ニョッキリと立つランドマークタワーが見える。人工のものではあるが、日ごとの空気やたなびく雲に彩られ、これも、なかなかの風情だ。仕事に飽きてきた頃、ベランダに出て端っこまで行けば富士山だって見える。夕陽に映える富士の姿に頭もいつしかスッキリとし、夜の部の仕事に入ってゆく。
台風が過ぎた日の朝は青空だった。空の青がこんなに強かったかと不思議な気がした。じっと見ていると、青が青でなくなり、瞼の裏の色が溶け出して、悲しいような、甘酸っぱいような、ほんの少しエロティックで、今日が何かは分からぬが大事な節目の緊張状態であるかのごとく、色々な気分が錯綜し、落ち込んでみたり弾んでみたり、変な眩暈がしてくる。
名付けようのないこんな感じがいい。母親に言っても分かってもらえそうもない、おとこの寂しさだ、そうだよ。
「かあさん、さびしいよ」と言ったら叱られた。なにか過ちを犯したわけでもなく、ただ「さびしい」と言っただけなのに。でも、子がさびしくなるのは、してはいけない過ちだった。
タワーレコードでもらってきたブルース曲を紹介するパンフレットに、マーティン・スコセッシ(ロバート・デニーロ主演『タクシー・ドライバー』の、あの監督)の言葉が載っていて、そこに、「人間でいるというのがどういうことか、人間でいるという“状態”がどういうものか――そうした問題の核心にいきなり行き着ける。それがブルースだ」とあって、へえ、面白いことを言うなと思った。
喜怒哀楽という言葉があるように、人間にはいろいろな感情がある。三次元空間に喩えれば、前後左右に上下を加えた6方向の組み合わせみたいなものだろうか。感情に支配される、という言い方もあるから、感情は、必ずしも人間にとってあまり気持ちいいものではないかもしれない。その辺のところから歌にまで発展するのかな、と、ぼくは思ってきた。
ところが、人間でいるという“状態”ということになれば、ん? と考えてしまう。なぜなら、人間でいるという“状態”を改めて考えてみれば、ほとんど無に近い気がするからだ。
原因らしきものはあるにしても、喜怒哀楽というような起伏の激しいものではなく、なんとなくやる気がなかったり、なんとなく嬉しかったり、なんとなく悲しかったり、なんとなく穴が開いているみたいな、それこそ、なんとも輪郭の定まらぬ、夕陽をポケーと見たりする“状態”が、1日の、1週間のほとんどの時間と思うからだ。あとは眠っているとか。
もし、そういう“状態”をもブルースが歌うとすれば、それは、面白いことだと思う。