など

 原稿を校正していてアタマにくることの一つに「など」がある。
 つかこうへいの傑作戯曲『熱海殺人事件』のなかに、二階堂伝兵衛部長刑事の「弁護士に頼るような犯罪者は嫌いだあ!!」という有名なセリフがあるが、その伝でいえば、「など」に頼るような物書きは嫌いだあああ!!!となる。
 「など」というのは、重要と思われるほうから順に(逆の場合もあろう)いくつか単語を並べた後で、もっと他にもあるけれど、全部書くのは紙幅の関係もあり以下省略、の意味合いで使われる場合と、考えられる限りは列挙したけれども、それ以外にもありそうで何だか不安、見る人が見て、そっちを挙げて、どうしてこっちを挙げてないのさ、おかしいじゃねえかと突っ込まれるのが嫌さに「など」と書き、批判を免れようとする。わたしは他にもあることをちゃんと知っているのだよ、でも、敢えてそれをしないのだから、どうか皆様そこんところをぜひご承知おきくださいの心性と甘えが見え隠れし、わたしは嫌いだ。
 だから、1ページに「など」が三度も頻出しようものなら、しかも「などなど」と重ねてあったりすると、わたしはキレる。すなわち、
 なにがなどなどだあっ! ドナドナの歌じゃねんだぞ、くらああああっ!!!
と、ダジャレの一発もかましたくなる。社員、また始まったかと下を向きクスクス笑っている。
 いますぐに思い出せないが、「など」についてのそういう属性を知悉し、逆手にとって、笑いにもっていった例を見たことがある。なるほどなあと思った。

話、聞いてんのか

 『大河ドラマ「義経」が出来るまで』の予約注文が続々入っており、わたしもチラシを持って近くの書店に行った。以前そこの店主から「シャチョーんとこの本は難しいからなあ。うちにゃあ向かねえですよ」と言われたことのある本屋だが、義経なら大丈夫だろうと高をくくり、ま、10冊ぐらいは注文くれるかと胸算用しながらドアを開けた。
 「おはようございます。店長、うち今度こういう本出すんだけどさ。どう? 義経本がいろいろ出てるけど、この本はちょいと違う。いいですか。今回の大河ドラマ『義経』のディレクターみずから書き下ろした怒濤の演出日誌なわけよ。映画ならさしずめディレクターズカット版てとこだな」
 と、馬鹿店長(言っちまったよ)何を思ったか、「シャチョー、これ、小説?」
 「……」
 「シャチョー、これ、小説?」
 「演出日誌…(演出日誌って言ってんだろうがよっ!:心の声)」
 「あ、そですか。返上つき?」
 「返上つき」
 「返上つき。返上つき、と。返上つきね。なら、5冊ほどもらっときますか」
 この馬鹿、最初から売る気がない! 仕事が忙しかろうと慮り、ひとが滑舌よく、はっきり、くっきり、丁寧かつ簡潔に「ディレクターみずから書き下ろした怒濤の演出日誌」だって言ってんのに、「シャチョー、これ、小説?」ってなに。キレそうだったよ、もう。我慢したけどさ、大人だから。どうせ、こいつのボキャブラリーには「ディレクター」も「演出」も「日誌」も、まして「怒濤」などという画数の多い単語は、はなっから無いに違いない。こいつには、「大河ドラマ、あのね、あんた、大河ドラマ知ってる? ほら、えぬえっちけえでさ、キレイな着物着て、昔の話やってるでしょ。あんたなんか観たってどうせ解らないと思うけど。あの大河ドラマをつくったひとがドラマの裏話を書いたの。どうやって役者を決めたとか、音楽はどうするとか、ロケの苦労話とかを。ロケって解る? ロケットじゃねえよ」とでも言ってやるべきだったのだ。
 売る気のない馬鹿店長に5冊と言われ、「いや、もう結構」と断ろうかとよっぽど思った。が、店長は馬鹿でも目利きの一人や二人はいるかも知れず、「ありがとう」とだけ告げ、番線印をもらって店を出た。

手が出ない!

 仕事柄でなくても、勝手に好感度ランクなるものを持っていて、このごろ眞鍋かをりさんはいいなあと思うのだ。
 いまアルバイトで横浜国大の4年生が来ているので、おじさんぽいと思われることを極力心配しながら、それでもなおかつ、君、眞鍋かをりさんを知っとるか、みたいなことを訊くと、以前学内で見たことがあります、なんて彼女こたえる。あっ、そ。それだけ。会話終了。
 おっと。ここで断っておかなければならないのは、わたしの場合、面識がなくても、好感度ランクが10位以内の場合、自動的に「さん」付けになっとります。眞鍋かをりさんには、今のところ会ったことがありません。藤原紀香さんにしても然り。
 そこで、さっそく眞鍋かをりさんのサイトを覗いてみていたら、そこに「風俗嬢の性の語り部屋」のところに手のマーク(あはははは… 書いてて自分でウケてしまった。リンク先のところにポインターが動くと手のマークが出るじゃないですか。ある時ウチの専務イシバシがパソコンを眺めていて、手が出ない手が出ないって五月蝿く言うもんだから、何事かと思いきや、要するにリンクが貼られていないことをそう称しているのだった。あはははは… 手も出ない!)が出たので、クリックしてみた。やばいサイトだったらすぐに閉じようと思ったのであるが、いたって静かなり! どころか、これが非常に面白い。笑える。ためになる。三拍子そろっている。プロフィールを見ると、学校と仕事の両方を健気にこなしているとか。
 つい、あちらこちら読んでしまい(特にカテゴリ「お客さま」チェリ〜ネタ再び、には腹を抱えて笑っちまいました。文章も巧いなあー)、肝心の「よもやま」書く時間が減っちゃったので、「風俗嬢の性の語り部屋」にリンクを貼ってお茶を濁すことにします。どうです。ポインターを移動させると手のマークが出るでしょう。
 手が出ない、手が出ない、か。イシバシ、おもしれえなあ!

時子

 大河ドラマ「義経」第2回「我が父 清盛」を観た。
 敵の大将・源義朝の愛人だった常盤を、夫の清盛が世話しているのを知った時子の心中穏やかならず、家臣に命令し屋敷に常盤を呼び出させ、偶然を装い対面。外では不吉な鴉の鳴き声。時子が「この匂いは!」と叫ぶ。夫・清盛がつかう伽羅の香りを常盤がしていたことから、常盤が我が夫の子を宿していることに気付く。この辺のキャメラワーク、演出の冴えは見事というしかない。また、雅な舟遊びに興じる女たちの衣裳や、屏風絵を前に清盛が夢を語るその屏風絵に夕陽があたり黄金色に輝くシーンの美しさはどうだ。あげたら切りがない。人間の愛憎劇が映像の美しさと相俟っていよいよ陰影を帯びてくる。
 今回最も美しいと思ったシーンは、逡巡した後、結局、常盤を嫁がせ、生まれた赤子を引き取り、牛若を仏門に送ると冷たく言い放つ清盛に、ガバと身を伏せ、今しばらく牛若と一緒に居させてくれと泣いてすがる常盤をキャメラが上から映しだす場面。常盤の長い髪がはらりと地面にひろがり、清盛はすっくと立って常盤を見下ろしている…。唸った! オッケーッ!!
 さて、時子だ。悔し涙に歯を食いしばる時子、いいねえ。いいねいいねと思いながら、俺も年取ったなあと思った。20代のときなら絶対稲森いずみの常盤に眼がいくもんね。可愛いし、綺麗だし、若いし…。比べて時子。いいじゃねえか、清盛の正妻なんだし、ぐじゅぐじゅ嫉妬深いヤな女、ぐらいに思ったんじゃなかろうか。すけべえな男としては、そりゃあ今だって稲森いずみの常盤はいいさ。でも、プライベートでもいろいろあっただろう松坂演じる時子の滲み出る艶というのは、若い俳優さんには無理だろう。また、この松坂慶子という俳優、今回は時子という難しい役どころだが、どうしたってこの人の、なんというか可愛らしさ、いじらしさとでもいったものが醸し出される。演技の巧拙より、この人の持っている明るい温かみ、みたいなものじゃなかろうか。うん。惚れたよ!

おっしゃる通り

 昨日この欄に「事ほど左様に、個性というのはどの場面においても現れる。それを、なるべく封じないようにするのがわたしの務め」
と、書いたら、可愛いかつての教え子から、
「ぶふふふ。どっちかいうたら、春風社の皆さんが、みうらせんせーの個性を封じないようあたたかく見守ってくれているにちがいない」とのメールが届き、なるほどと合点がいき、また、教え子のやさしさに触れ感動したのでここに記す。有難いもんだねえ。
 2月3日から6日まで、この教え子の個展が東急東横線白楽駅下車1分のところにある「ANGLE21」で開催されるそうだから、何を措いても見に行かねば!

値引き交渉

 わが社の場合、担当編集者が本づくりの最初から最後までをやる。みずからの意図で装丁を誰々に頼むとか、写真を使いたいからこの人に頼むとか、そういうことはあるが、基本的に全部やる。
 本文や表紙の紙を選ぶのも、印刷所に見積りを依頼するのも担当編集者だ。
 相見積りを取り、見積り書のFAXをわたしが見、もう少し値段を下げて貰いなさいと指示する。編集者はそれぞれの個性で値引き交渉をする。武家屋敷は武家っぽく。若頭は若頭っぽく。たがおはたがおっぽく。
 たがおに、「これこれこうだから、この値段で、お・ね・が・い・し・ま・す!!」と言いなさいと指示すると、驚くほど忠実に、有無を言わさぬ勢いで「これこれこうだから、この値段で、お・ね・が・い・し・ま・す!!」と言う。凄い! おお、なんて断定的! そうか、そう言えと教えたのは俺か…。それを聞いて、横で若頭がくすくす笑っている。「言えねえ、言えねえ、俺には言えねえ」などと少々顔を赤らめている。家が商売をしている関係からか「こことここの値段を下げて、もう少し何とかなりませんかねえ。お願いしますよ」というのが若頭のスタイルだ。
 事ほど左様に、個性というのはどの場面においても現れる。それを、なるべく封じないようにするのがわたしの務め。

鈍重な編集者

 今年は怒濤の年との直感がはたらき、年賀状にもそのように書いたが、予想通り、次々に仕事が入ってきて嬉しい悲鳴をあげている。
 本を作るには、仕込みにどうしても一定期間を要する。クォリティーを下げるわけにはゆかぬ。出版も商売であることは百も承知。しかし、ウチならではの本づくりというものがある。先年他界した師匠ヤスケン譲りの編集者魂の看板を下ろすことはできない。
 ここで問題。限られた人数でクォリティーを下げずに本を作るにはどうするか。
 ?優秀な編集者を入れる。
 ?優秀な人を入れ、優秀な編集者に育てる。
 ?鈍重な人を入れ、ガンガンに叩き、優秀な編集者に化けるのを待つ。
 ?さらにいい本づくりを目指して、入ってくる仕事を選ぶ。
 ?刊行時期を少しずつ延ばし、月々平均的な刊行点数にする。
 以上、この五つぐらいが考えられるだろう。複合的にすすめるしかないとは思うが、人のことでいえば、「優秀な編集者」というものを、わたしはちょっと疑っている。師匠のヤスケンは、修飾語なしの編集者なのであって「優秀な編集者」ではない。なら、優秀じゃないのかと問われれば、そういうことでもないが…。
 きのう、帰宅途中、専務イシバシに「あなたは、ある人から垢抜けするなよといわれたそうだけど、それは最大の誉め言葉だよ」と言ったら、イシバシ急に押し黙り、雲行きが怪しくなったから、慌てて「お、おれ、おれだってカッペだもん。い、田舎者が本を作るのさ。田舎者っていうのは、体に自然が染みついている人のことをいうんだろ。な、そうだろ。そういう人じゃないと本はつくれんって、そういうことさ。な、な」ふー。危なかった。逆鱗に触れそなところ、なんとか切り抜けた。イシバシ、横目でわたしを疑わしそうに見ながら、今イチ納得できかねるといった顔をした。
 しかし、口からでまかせのような話ながら、まんざらデタラメでもないような気がしてきたのだ。ヤスケンは江戸っ子だったけど、あの人は天才的に体に自然を保持していた人だと思う。滑りのよいツルンとしたいわゆる優秀な人は、ウチには相応しくないかもしれない。
 となると、先の問題、?あたりが正解だろうか。天然自然、世間相場では一見鈍重と思われても、風通しがよく、土の匂いや潮の香りのする垢抜けない人こそ、わが社には相応しい…。
 だからって馬鹿では困る。「B4でコピーを取ってくれ」って頼んだら、何を思ったか部屋から出て行き、やがて帰ってきたかと見るや「あのう、この建物、地下は2階までしかないんですけど…」といった若者がいたそうだ。ヤスケンさんから聞いた話。いくらなんでも、こんなのはちょっと困るよ。