ゾルバでなく、きのうのメールブロック男のことだ。
仕事中、彼は、なぜ、切ったメールブロックを携帯電話の画面に貼らずに自分の頬や額に貼ったのだろう。わからん。どうしても。わかる必要はない。でも気になる。
あのゼラチン質の手触り感が気に入って、それをほっぺやおでこに貼ることでやさしい気持ちになれたとでもいうのか。それもなんだか違う気がする。本人に確かめるのが一番手っ取り早いが、仕事上の情報で守秘義務があろうから、知人のSに男の連絡先を訊くわけにもゆかぬ。これからの人生で、仮にわたしが偶然どこかでその男に逢ったとして、くだんの件に関し尋ねても、本人にすら確たる理由はわからないのかも知れぬ。
なんか変だと思ったら、その男のことを考えていた。
ケイタイ電話の画面を後ろや斜めから覗かれないようにするための透明なシールみたいなの、あれ、なんて言うの? と愛ちゃんに訊いたら、すぐに調べ、そう教えてくれた。
というのは、知人のSから電話が入り、仕事で近くまで来ているので寄ってもいいかと言うから、ああ、いいよいいよ、待ってるよ、と言ったら程なくやって来て、最近起こったトホホな話をしてくれた中に、メールブロックにまつわるものがあったからだ。
Sは派遣会社に勤めている。派遣されるほうではなく、派遣する側。応募があれば、面接し、住居を手配し、派遣先のメーカーに一緒に付いて行ってあげる、ほとんど学校の生活指導のような仕事だ。
ところが、あまりに生活力のない人間が多いらしく、住居を手配するばかりか、ひどい時には鍋釜(今なら炊飯器か)まで買ってあげる。給料をもらったら返すことを誓わせ代金を立て替えてあげる。過日面接した青年は、前日、寺の空き地で寝たと言うから、かわいそうに思ったSは、面接を終え部屋をあてがった後、ちょうど手ごろな蒲団が家に余っていたことを思いだした。仕事が終わり夜遅く家に着き、夜中、かわいそうな青年のためにと蒲団を持ち出した。そうしたら、奥さんに見咎められ、「あなた、浮気でもするつもりじゃないでしょうね!!」って言われた。でも奥さん、蒲団をかついで浮気しに行く男はいないと思うよ。
それはともかく、メールブロックの話。
年齢は39歳。男性。少しおとなしめだが、色白の男前。このひとなら大丈夫だろうと思ったSは男をメーカーに送りこんだ。故障したケイタイ電話を預かり修理する間、替りのケイタイをお店に届けるそのケイタイの、ある段階を受け持つ会社で、詳しい内容についてはSもそれほど知らない。とにかく、ケイタイ電話に関わる仕事で、作業工程の中に、ぐるぐる巻きにされたメールブロックのシールを適度の長さに切って貼るというのがあったらしい。
色白の男前を派遣し、やれやれと安心したのも束の間、翌朝、工場長からさっそく電話が入り、あの男、もう要らないと言ってきた。
焦ったSが「ど、どうしてですか」と尋ねると、「会社の女性たちが気持ち悪がっている」。「?????」
事の顛末を要約すると、概略、以下のようなことだったらしい。
色白の男前、あてがわれた机に向かい指示された仕事についたまでは良かったが、なんと、ロールされたメールブロックを切って、ケイタイ電話に貼らずに、自分の頬に貼ったらしい。遊び心なのかなんなのか、とにかく貼った。そばで作業していた女性がそれを見、「あのう、どうかされたんですか」と尋ねた。「いえ、なんでもありません」と色白の男前は言い、話し掛けてきた女性をジッと見据えた。「でも、頬にメールブロックが付いていますけど…」「いえ、なんでもありません」
不審に思いながらも、なんでもありませんと言う者をそれ以上問いただすわけにもゆかず、女性は自分の仕事に戻った。が、しばらく経って、なんだかやっぱり不安になり、眼を上げると、あろうことか、くだんの男、長めに切ったメールブロックを今度は自分の額に熱冷まシートのごとくペタリと貼っていた。
驚いた女性、「あの、あの、あのう………、どうかされたんですか」。男は眼を上げ、睨めまわすように女性を見、「いえ、なんでもありません」。勇気を振り絞って女性、「で、でも、ひ、ひ、ひたいにメールブロックが…」。「いえ、なんでもありません」
というわけで、工場長からSに先の電話が入った。
それにしても、その男、なにゆえメールブロックを頬に貼ったり額に貼ったりしたのだろう。女性の気を惹こうとでも思ったか。粘着力を確かめようとでもしたのか。ただなんとなくか。貼ったら気持ち良かったのか。それとも…。わからない。
「愛と欲望の日々」にでてくる狸穴について疑問を呈したところ、明解な答えが寄せられ、今日の関東の天気のようにパーッと雲が晴れた。ありがとうございます。インターネットってこういうところがいいなあ。
さて、昨日のコメン答(コメントに対する返事をこう呼んではいかがかと思うが、どうだろうか。どう? ダメ? ダメ。あ、そ)にも書かせていただいたが、急に思い立ち、北島三郎の「涙船」をカラオケで歌ったら、自分で歌っているのに感動しちゃってウルウル来た。船村徹作曲、星野哲郎作詞。いい歌だなあ。♪なーーーーーみだあーのーーーーーぉおおおおーーーーーーーっ♪ と、くらあ。ね。
正月二日、いや、三日だったかな。夜、テレビをつけたら、たしかBSで北島三郎特集をやっていた。デビュー前の苦労話から現在に至るまでの半生を歌を挟みながら綴る番組で、とても興味深く、面白く見た。そのなかで、上の♪なーーーーーみだあーのーーーーーぉおおおおーーーーーっ♪のところ、作曲家の船村徹が言うことに、サイレンの音がヒントだったとか。ほんとかよ!?
新宿って言ったかなあ、船村先生、酒を呑んでいたらパトカーだか救急車だかのサイレンの音が聞こえたんだって。そうしたら、店にいた客が、なんだなんだ、どうしたんだ、というので一斉に外へ飛び出した。しばらくすると、出ていった客たちがまたぞろぞろと戻って来た。これだ! って、船村先生思ったそうな。サイレンの音は人を惹き付ける!! あはははは…
そういえば、たしかにあの出だし、サイレンの音みたいだもんな。あそこのところ、息継ぎせずに一気に歌うのが難しいんだって。北島三郎がそう言ってた。実際にやってみると、無理無理、ぜってー無理! 勢いつけて♪なーーーーーーーー、と歌い出しても、最後のほうになると息が切れちまい、プスプスプスと情けないことになってしまう。あれを一気に歌い切るというだけでも北島先生は尊敬に値する。
ぼくのことじゃなくて、歌のこと、サザンの。カラオケで歌い、風呂で歌い、通勤途中で歌い。だいぶ身に付いた(と思う)。
♪眠らぬ街に夜明けは来ない 祭祀(まつり)はちょいとCool♪ いいねえ。ほんとほんと。
昨日も、いつものコットンクラブに寄って歌った。行くと、もうママが知っていて、「練習曲ね」といって入れてくれる。すかさず♪Going up to“狸穴天国”と歌う。
この狸穴、まみあなと読むそうだ。狸でまみ、桑田さんの発明? 念のため調べてみたら、『大辞林』にちゃんと載っていた。アナグマの異名。また、タヌキ、と。そうなんだ。へ〜、まみあな、まみあな、か。音だけ聴くと、なんだか愉しい。「愛と欲望」では、狸穴パラダイスというふうにでてくるが、桑田さんのことだから、ほとんど、マミャーナパーラダイとしか聞こえない。
にしても、こんな言葉を探してきて巧く歌詞に乗せるのは桑田さんぐらいだろうと思っていたら、都はるみが歌った「東京セレナーデ」という歌の中、冒頭に「夜霧が流れる狸穴あたり」があって、へ〜、って思った。こっちは作詞がたかたかし。隠語として別の意味があるのだろうか。
連日『大河ドラマ「義経」が出来るまで』の予約注文が入ってくる中で、選滝というタッキー&翼のファンサイトからいらっしゃる方が相当数いる。
わたしは、特定のだれかに対しファンというほどのファンだったことはないが、今回いい機会なので、興味津津で選滝を覗いてみた。こんな楽しみ方があったのか、というのが正直な感想。熱狂的というのがどういう状態かよくわからないけれど、決して熱狂的ではなく、タッキー&翼の魅力を共有し、情報を提供し合い、みんなで楽しんでいるのがよくわかる。英語による掲示板も設けられ、外国から訪れる方もかなりあるようだ。
管理人のrayさんが書いている義経君物語は、えらそうな歴史記述とは雲泥の差、難しい言葉を使わず、痒いところに手が届くようで本当に分かりやすい。系図の線が手書きのような太い線であることも親しみが湧く。線がカッターで紙を切った時のように細いと、歴史の試験問題を前にしたときのようにウンザリする。
また、傑作は選滝妄想部屋。ページの冒頭「私たちは夢を見ます。素敵な彼と二人だけで過ごす淡い夢。「非現実の出来事」と認識しているのに、あたかもそれは自分の隣に息づいて、時に体温さえ感じてしまうことがあります」のリードは、『義経』第3回、鞍馬寺に追い遣られ、ことあるごとに寺を抜け出そうとしていた牛若が覚日律師に見つかり、「都に戻りたい」と訴えたのに対し、律師が「都も、地獄も、極楽も、みんなここにある」といって牛若の胸に手のひらを押し当てるのにも似、勝手なことをいわせてもらえば(自分がそうだという意味で)、目の前のつまらぬ日常、堪えがたい現実を少しでも楽しく意義あるものにしようとのこころが垣間見える気がして、なるほどと思った。選滝妄想部屋のページをスクロールして下まで持っていくと、「気分じゃないのでTOPページに帰る」とあり、爆笑。
掲示板にhirokoさんという方が『大河ドラマ「義経」が出来るまで』のスレッドを立ててくれていたのだが、レスが多くなったというので、『大河ドラマ「義経」が出来るまで』その2として、今度はアンさんがスレッドを設けてくれた。
本当は、選滝サイトの掲示板に書けばいいのかも知れないが、わたしが書くと、どうしてもこんなような可愛げのない無骨な文体になってしまい、ちょっと恥ずかしいので、ここに書いた。選滝の皆様、ありがとうございます。
大河ドラマ『義経』第3回「源氏の御曹司」を観た。
鞍馬寺の門前での母子の別れの場面、一人でテレビを見ていたこともあり、もう、なりふり構わず滂沱の涙を流したよ。嗚咽までして。(←馬鹿だ)常盤役の稲森いずみの涙は値千金! いいね、いいねえ。ぐっと堪えても、子を思う母の気持ちが…涙が滲んでくるわけだねえ。
遮那王と呼ばれることになる牛若も、母を恋うて日ごと夜ごと寺を抜け出す。ここに日本人が好む(日本人だけではないかも知れない)ドラマのアキレス腱を見た気がした。
横浜のとある劇場では毎年年末恒例で、長谷川伸原作の『瞼の母』の公演があるらしく、何度か観にいった人の話によれば、例の「親にはぐれた小僧っ子がグレたを叱るは少し無理」のところになると、大の男たちがおいおい泣くそうだ。
演出家・竹内敏晴が、稀有の教育者・林竹二に誘われ神戸の湊川高校に演劇を持って入るとき、何を持っていけば困難な環境で学校に通う生徒たちの心に響くかというので、近代以降の欧米の戯曲を渉猟した後、どうもどれもあかんということになり、いろいろ考えあぐね、長谷川伸の『瞼の母』と菊池寛の『父帰る』を提示したところ、林は言下に『瞼の母』を推したという。
『義経』第3回を観て、常盤と牛若の関係に、『瞼の母』や二葉百合子の『岸壁の母』とも相通ずる母子物語の原型があると思った。
仕事が仕事なもので、どうしても文章のことが多くなってしまうが、主語と述語の呼応というのは、日本語に限らず、どの言語でも基本中の基本だろう。ところが、かなり文章を書いている人でも、時にそれが乱れることがあるらしい。「わたしは」で始まった文章が、何が何して、こうこうこういうわけで、それがこんなことにもなり、あっちにつながり、こっちに寄り道しているうちに、結論として、「基本ではなかろうか」で結ばれる。
は?
中ほどを全部取っ払って、文の構造を確かめると、「わたしは…」「…基本ではなかろうか」ということになり、バカヤロー!と叫ぶことになってしまう。「そうだよ、基本を弁えぬのはお前さんだよ!! ったく!」勢いとテンションの高さと集中力で書いて欲しいと思うのだが、頭でこねくり回し言わずもがなのことをもっともらしく言おうとする魂胆が、間違いの元。
翻訳物で、何度読んでも意味がとれぬような文章は、だいたい訳文が間違っていると思って構わぬ、ということもある。時々、何言ってんだこいつ、と、アタマにくる。何度も言うが、本当にわかったことはシンプルだ。