営業のアルバイトで来ているMさんという大学四年生の女性がいる。専務イシバシから要諦を教わり、この頃は一人で外出するようになった。大学の先生に会って話を聞いてくる。企画を最後までまとめることは相当の経験を要するからまだ無理だし、そこまでは会社も要求していない。ところがMさん、なにがどう効を奏しているのかわからないが、会社に来るようになってほんの数ヶ月しか経っていないのに、出版につながるような話をいくつも持ってくる。
武家屋敷の大学時代の恩師に企画の話で会いに行く時その話題になった。すると武家屋敷が「人のこころを動かす才能があるのよ」と言下に言った。きっとそうなのだろう。技術についてマニュアル化すれば際限がないけれど、それをいくら精緻に重ねても人のこころを動かせるわけではない。営業というのはおそらく人のこころを動かせるか否かが勝負の分かれ目だろうし、それは技術とは違ったところにあるようだ。
そういえばMさん、面接を受けに来た時、人の話を聞くことが好きと言っていた。で、眼キラリ! なるほど!
暑い日がつづき頭も体もおかしくなりそう。本当は帽子を被ればいいのだろうが、少年と老人以外の男は帽子を被っていないので、ぼくだけ目立つわけにもいかないから、なるべく日陰をさがしてチョロチョロ歩いている。陰が一つもないさっぱりした道はつらい。
チョロチョロといえば、きのう、保土ヶ谷駅の上りホームで電車を待っていたら、焦点の合わぬ眼に何やら動くものが映った。ハッとして半歩しりぞき焦点を合わせると、トカゲ。トカゲが線路脇のコンクリートの穴から這い出してきてすぐ横の別の穴にもぐっていった。こいつも暑いらしい。
わたしと同じで帽子を被るわけにはいかない。トカゲが帽子を被ったらおかしい。変だ。食べ物なら、すぐそばにスーパーやハンバーガー屋やどこにでもある和食のチェーン店があるから困らないだろう。が、線路脇にできた穴では涼を取ることは難しい。時々這い出してきて、こっちの穴からあっちの穴に移動するとき、束の間、日陰の風に身をさらすぐらいが関の山だろう。
そのうち上り横須賀線の電車がホームに入ってきたから、トカゲが今どうしているのか見極めるわけにもゆかず、もはや想像するしかなかった。車内がクーラー利いている分、車外は熱風。それでなくても太陽にさらされた車体は触れないほど高温になっているだろう。ホームに電車が停まっているあいだ、トカゲは必死に身を潜め、電車が出ていったとなったら、涼を取るため、またチョロチョロと穴から這い出す…。お前もか。なんて。俄然親近感が湧いた。
帰宅後テレビを付けたら前川清がデビュー曲「長崎は今日も雨だった」を歌っていた。彼はむかし、内山田洋とクールファイブというグループのボーカルだった。前川のほかに、クールかどうかは知らないが、前川の後ろで5人がときどきアワワワ〜♪とかいって、口三味線みたいなことをしていた。前川があの独特の縦皺を眉間にこしらえ熱唱している後ろで、5人は割りと暢気そうに見えた。
それはともかく、あの頃の前川清はカッコ良かった。今のコミカルな彼からは想像できない。1969年。ぼくは12歳。当時の前川は、テレビに出ているというのに歌う以外は全くしゃべらなかった。司会者がマイクを向けてもしゃべらなかった。幼いわたしは幼いなりに、男というのはこうでなければならないと思った。男の中の男! わたしはどちらかというとお調子者でキャッキャと騒ぐほうだったから…。子供の浅知恵で前川清の真似をして次の日から一切口を利かないことにした。そうしたら「どうした。腹でも痛いか」と無理解な担任の先生が心配して声を掛けてくれた。男のダンディズムがこの先生には分からないのだと思った。前川清の真似は一日ももたなかった。無口を押し通すなんてとても無理。すると、無口な前川清がますますカッコ良く見えた。
その後、前川清の無口は本質的なものでなく、テレビ的なものだと知った。無口どころかひょうきんで、むしろよくしゃべる人だった。が、それはもっと後のこと。話を戻して1970年。氷が溶け出すごとくに前川清の重い口が少しずつ開かれるようになっても、あこがれがガラガラと音を立てて、というほどのことはなく、無口な前川が無口であろうがなかろうが次第に関心が薄れ、中学に入ったわたしは、好きな娘ができたり勉強させられたりで身辺にわかに忙しくなった。
1971年、前川は藤圭子と結婚。しかし、わたしにとってそんなことはもうどうでもよく、かつて、といっても二年前、あんなにあこがれていたのが嘘のようだった。そうなったのには理由がある。若さはもちろんだが、既に解散していたというのにビートルズの熱風がようやく秋田の田舎にも吹き始めていたから。ヘイ、ジュ〜♪ もはや日本の歌など聴く気になれなかった。
DVDまるまる2時間『ザ・マイルス・デイビス・ストーリー』を観た。
バックに流れる曲はほとんど知っているし、登場人物も、チャーリー・パーカー、ディジー・ガレスピーから始まり、クラーク・テリー、ジミー・コブ、シャーリー・ホーン、ハービー・ハンコック、ロン・カーター、トニー・ウィリアムス、デイブ・ホランド、ジャック・デジョネット、ジョー・ザヴィヌル、キース・ジャレット、チック・コリア、ジョン・マクラフリン、デイブ・リーブマン、マーカス・ミラーなど、往年の名プレイヤーから現役バリバリミュージシャンまで入れ代り立ち代り現れマイルスとの思い出を語り、飽きさせない。マイルスの物語なのにジャズの歴史をドカン! とまとめて見せられるようで楽しめた。
することなすことわがままなマイルスだったが、思い出を語る名うての演奏家たちの語り口から、彼らがそれを今も宝物のように大事にしていることがよく分かる。
マイルスの最初の奥さんで、『サムデイ・マイ・プリンス・ウィル・カム』という恥ずかしくなるようなタイトルのアルバムジャケットに写真が出ているフランシス・テイラーによると、マイルスはとても嫉妬深く、あっちのほうも強かったらしい。
ミュージカルダンサーだったフランシスはマイルスのために結局ダンサーを辞めることになる。自分の妻が客の脚光を浴びることに我慢ならなかったのだろう。わがままも相当なもので、ある時、ミュージカルのリハーサル最中に電話がかかってきて、昼の休憩時間に一緒にメシを食おうという。説明しても分かってくれる相手ではない。休憩は1時間。急いで駆け付けたが食事はなし。なんのことはない「結局満足したのはマイルス一人だけだった。アハハハハ…」って、なんだ、そういう艶っぽい話か。
「最初の二人の息子とは終生和解することはなかった」と娘さん。娘さんのことは可愛がったのだろう。「いろいろあったけど、最後は水に流して子供たち全員に遺産を平等に分けてくれるかと思ったのに…」とも。ともあれ、あっぱれなわがまま人生ということになろうか。
『鬼平犯科帳』の主人公・火付盗賊改方(ひつけとうぞくあらためかた)長谷川平蔵が、事件に少なからず関係している女とも知らず、茶屋の女に入れ揚げ情痴に走る部下の忠吾に対し、事件終息後「お松がことは、お前の胸の底ふかく仕まっておけい。年をとってからのたのしみになろうよ」と戒める場面(「谷中・いろは茶屋」)がある。
然り。その時その時で体験することの味わいと、追体験、つまり思い出の味わいとでは確かに異なるものだ。頭の毛もだが、思い出も、時と共に薄くなりしみじみしてくる。それがかえって切ない。時間には勝てない。永遠なんてない。喜びも悲しみも束の間だ。うっ、うっ、うっ、うたかた。平家物語。祇園精舎。いつかは死ぬ。チ〜ン! なんて。
ところで歌というものは追体験を喚起し沸騰させる触媒作用もあるらしい。インターネットでCDを検索していて投稿コメントをみていると、思い出に浸りつつ、なつかしい、素晴らしい、島に持って行くならこの一枚、大、大、大傑作! という文脈で書かれたものが相当数ある。『懐かしのメロディー』という番組が毎年恒例で放送されるのも、歌と追体験の味が切っても切れない関係にあるからだろう。
してみると、この歌がいい、あの歌がよかったといっても、実のところ、この歌あの歌そのものがいいというよりも、うがった言い方をすれば、この歌あの歌を聴いていた時の自分が気持ちよかった。だから、その気持ちよさにまた浸りたい。気持ちよくさしてくれい! って、そういうことかもしれない。
だって、投稿コメントを見ていると、究極がいっぱいあって、究極だらけで、判断に困ってしまう。「最終的に自分の判断で購入してください」と注意書きしているサイトもある。そりゃそうだ。そうだけどさぁ。
話が逸れた。さて、『鬼平犯科帳』で忠吾があきらめたお松がもしも松たか子だったら、なかなかあきらめ切れるものではなかったろう。
ん!?
昨日この欄に「おらいの先生」という題で日記を書いた。写真家の橋本さんに頼まれ、出力し、橋本さんはそれを「おらいの先生」の息子さんにFAXした。
わたしは日記で「おらいの先生」について、「地元石巻市で名医の誉れ高かった清佶(せいきち)さんの家族写真がある。」と書いた。それを読んだ息子さんが橋本さんに「うちの親父は、名医というよりも良医という感じではなかったか」のコメントを電話で洩らされたとか。なるほど。わたしはそこに身内だからこそ感じ取るニュアンスの違いがあることを思い知った。
「名医」も「良医」も辞書で調べれば、すぐれた医者、ということになる。が、文字通りの意味としては、「名医」は名のある医者、「良医」は単純に良き医者だ。名のある医者になるためには良き医者であることも必要かも知れぬが、それだけでは済まないこともあろう。また極端な話、良き医者でなくても、他の条件を積み重ねることによって名医にのし上がることも可能かも知れぬ。本人に確認したわけではないから間違っているかもしれないが、「おらいの先生」の息子さんが「名医」でなく「良医」と言ったことの中に、「清佶っつぁん先生」に対する情愛がしみじみと込められているような気がして、こういうことは大事にしなければならないと思った。
そんなわけで、昨日の日記、「名医」を「良医」に訂正させていただきました。
写真家の橋本照嵩来社。写真集『北上川』のキャプションについて相談し、適宜位置を決め、武家屋敷にパソコン上で処理してもらう。
今回の写真集は、写真家橋本が故郷「北上川」を半世紀かけて撮ったものであり、私的な写真も数点含まれている。中に、地元石巻市で良医の誉れ高かった清佶(せいきち)さんの家族写真がある。他の写真に埋もれるようにひっそりしていると思ったら、写真の中の空気と人物がきのういきなり動き出した。
家族四人の表情、たたずまいがなんとも自然。清佶さんの人の良さが目元、口元に現れており、父のあぐらに抱かれた娘さんのくすぐったそうな喜びあふれる笑顔はネズミ花火のようでもあり、それを見遣る慈愛に満ちた母のほほえみはどんな女優も敵わない。息子はポカーンと乾パンみたいなものを目に当て安心しきって遊び、なんだかいかにも男の子っぽい。時間が経っているのに、家族というのはこういうものと静かに圧倒的に語りかけてくる。
子供たちの母はかつて銀座コロンバンの看板娘として働いたことがあるそうだ。美人の誉れ高く、道行く人にたびたび声をかけられたが、結局幼なじみの清佶さんと結婚し病院を切り盛りして来た。あぐらの中の娘さんは現在看護婦長、乾パンを持つとぼけた幼子は立派な医師になっている。それにしてもこの写真、四十年の時を超え語りかけてくるのはなぜなのか。写真家がポッと訪ね「撮らせてください」と言って撮れる写真ではない。家族四人とも実にリラックスしており、プロのモデルでもないのにどうしてこういう表情ができるのかと不思議。ヒントは清佶さんの呼称にありそうだ。
清佶さんのことを地元の人は親しみを込めて「おらいの先生」「清佶っつぁん先生」と呼んでいた。もちろん後にプロの写真家になるはずの若き橋本も。そういう関係がこの写真からほの見える。見れば見るほどいい写真、こころとこころの通いあいがくっきりと見える写真だ。故人になった清佶さんを偲んで、年に一度のゴルフコンペが今も開かれている。
