わが社の場合、担当編集者が本づくりの最初から最後までをやる。みずからの意図で装丁を誰々に頼むとか、写真を使いたいからこの人に頼むとか、そういうことはあるが、基本的に全部やる。
本文や表紙の紙を選ぶのも、印刷所に見積りを依頼するのも担当編集者だ。
相見積りを取り、見積り書のFAXをわたしが見、もう少し値段を下げて貰いなさいと指示する。編集者はそれぞれの個性で値引き交渉をする。武家屋敷は武家っぽく。若頭は若頭っぽく。たがおはたがおっぽく。
たがおに、「これこれこうだから、この値段で、お・ね・が・い・し・ま・す!!」と言いなさいと指示すると、驚くほど忠実に、有無を言わさぬ勢いで「これこれこうだから、この値段で、お・ね・が・い・し・ま・す!!」と言う。凄い! おお、なんて断定的! そうか、そう言えと教えたのは俺か…。それを聞いて、横で若頭がくすくす笑っている。「言えねえ、言えねえ、俺には言えねえ」などと少々顔を赤らめている。家が商売をしている関係からか「こことここの値段を下げて、もう少し何とかなりませんかねえ。お願いしますよ」というのが若頭のスタイルだ。
事ほど左様に、個性というのはどの場面においても現れる。それを、なるべく封じないようにするのがわたしの務め。
今年は怒濤の年との直感がはたらき、年賀状にもそのように書いたが、予想通り、次々に仕事が入ってきて嬉しい悲鳴をあげている。
本を作るには、仕込みにどうしても一定期間を要する。クォリティーを下げるわけにはゆかぬ。出版も商売であることは百も承知。しかし、ウチならではの本づくりというものがある。先年他界した師匠ヤスケン譲りの編集者魂の看板を下ろすことはできない。
ここで問題。限られた人数でクォリティーを下げずに本を作るにはどうするか。
?優秀な編集者を入れる。
?優秀な人を入れ、優秀な編集者に育てる。
?鈍重な人を入れ、ガンガンに叩き、優秀な編集者に化けるのを待つ。
?さらにいい本づくりを目指して、入ってくる仕事を選ぶ。
?刊行時期を少しずつ延ばし、月々平均的な刊行点数にする。
以上、この五つぐらいが考えられるだろう。複合的にすすめるしかないとは思うが、人のことでいえば、「優秀な編集者」というものを、わたしはちょっと疑っている。師匠のヤスケンは、修飾語なしの編集者なのであって「優秀な編集者」ではない。なら、優秀じゃないのかと問われれば、そういうことでもないが…。
きのう、帰宅途中、専務イシバシに「あなたは、ある人から垢抜けするなよといわれたそうだけど、それは最大の誉め言葉だよ」と言ったら、イシバシ急に押し黙り、雲行きが怪しくなったから、慌てて「お、おれ、おれだってカッペだもん。い、田舎者が本を作るのさ。田舎者っていうのは、体に自然が染みついている人のことをいうんだろ。な、そうだろ。そういう人じゃないと本はつくれんって、そういうことさ。な、な」ふー。危なかった。逆鱗に触れそなところ、なんとか切り抜けた。イシバシ、横目でわたしを疑わしそうに見ながら、今イチ納得できかねるといった顔をした。
しかし、口からでまかせのような話ながら、まんざらデタラメでもないような気がしてきたのだ。ヤスケンは江戸っ子だったけど、あの人は天才的に体に自然を保持していた人だと思う。滑りのよいツルンとしたいわゆる優秀な人は、ウチには相応しくないかもしれない。
となると、先の問題、?あたりが正解だろうか。天然自然、世間相場では一見鈍重と思われても、風通しがよく、土の匂いや潮の香りのする垢抜けない人こそ、わが社には相応しい…。
だからって馬鹿では困る。「B4でコピーを取ってくれ」って頼んだら、何を思ったか部屋から出て行き、やがて帰ってきたかと見るや「あのう、この建物、地下は2階までしかないんですけど…」といった若者がいたそうだ。ヤスケンさんから聞いた話。いくらなんでも、こんなのはちょっと困るよ。
書店営業に力を入れるべく、販売代行を業とする「ことばの本ネットワーク」の二人を呼び、打ち合わせ。しばらく試験的に東京を中心とする関東近県の大型書店300店を順次回ってもらうことにした。
特に『大河ドラマ「義経」が出来るまで』は、返品を恐れず、平積みしてもらえるよう一冊でも多く注文を取って欲しいと頼む。「義経」の第一回視聴率は歴代七位の記録だそうだが、ディレクターの黛さんの熱は半端じゃないし、ドラマがこれからますます面白くなることは、第一回の放送を見て確信した。冷静な計算は大事だが、冷めた計算内の仕事は、計算以上のことを生まぬ。以上のものが生まれるとしたら、それはそこに熱があるからだ、なんてことを講釈し、ではどうぞよろしく、と。
いろいろ興味深い話もあったが、一番なるほどと思わされたのは、売れない本は、販売のプロがどんなに意を尽くしても売れない。それより、売れる本で、まだ十分に手を尽くしていない本に力を注ぐのが効率的だし合理的ではないのか、ということ。仰る通りだ。要するに、売れない本は逆立ちしても売れない。あはははは…。スッキリ。自虐の詩を歌うしかないのか。しかし、結論はそうでも、それならそれで、捩じれた自虐の念をバネに、また工夫のしがいがあろうというもの。
保土ヶ谷にある本屋・第二日本堂の二代目ご主人から、以前、「社長のところの本は難しいからなあ」と言われたことがある。肝に銘じた。わかってますわかってます。奥邃先生、難しいもんなあ。思案のしどころ。
販売会社の二人が興味を示した本は、これから出るものでは、『大河ドラマ「義経」が出来るまで』『ママには内緒だよ』『愛妻切紙四十八手』、既刊分では『東大全共闘・68-70』『恋愛科学的就職内定術』『待つしかない、か。』『現代日本語モンゴル語辞典』ふーん、なるほど。
帯だ帯。『義経』は帯をもう少し工夫しよう。
言うほどの意見、あるか、と、自分に問うてみる。
気分。有頂天になったり落ちこんだりさ。記憶に結びついているような。刻印されていて。
助詞が見つからず、切れ切れの単語しか浮かばない。自分のことでいっぱいになる。溢れる。なにか立派な思いつきでも浮かべばいいのだが、あまり、そういうことはない。嘘! ほとんど。いや、全然。
ええ、きのうは、いつも通りしっかり仕事をしました。電話で話したり校正したり。Nさんが送ってくれた詩も読んだ。「蝙蝠」はよかった。それで、そういうことをいつも書いているし、日記だからそうしているのだけれど、たまに、こういう気分になることがある。「こういう」ってどういう? 厄介。
それで、切れ切れな、電気がプチプチ、ショートしている時のほうがぼくの本来のような気がし、ずっと幼い頃の自分に触れていくような気もし、鉛筆の先をさっきから随分長い時間、見ていたようなのだ。
こういうことは書いても仕方ない気もするけど、何を書いても上滑りだから、今日はこれを書いた。なんか、悪いことでもしたような気分。
飲み過ぎ? ただの。ふむー。
熊本大学の小松裕さんから年賀状をいただき、そのなかに、岩波の『世界』2月号で新井について触れたと記されていたので、さっそく買って読む。「現在に生きる田中正造」がそのタイトル。
田中正造が谷中村に入って100年目の昨2004年、岩波文庫版『田中正造文集』第1巻が出たが、小松さんはその編集者の一人。
『世界』では、この期にあたり、70年代以降現在までの田中正造研究について概観し、その意義と今後の展望に触れている。最近の研究動向を説明するくだりで『新井奥邃著作集』について「晩年の田中正造と深い精神的交流を行ない、相互に認め合い、思想的影響を及ぼし合った新井奥邃の思想の全貌が、この著作集刊行によって明らかにされれば、田中正造研究にも大きな貢献をなすことは間違いない」と、最大級の誉め言葉で言及してくれている。有難し!
また『著作集』のことだけでなく、田中正造研究を光源として見えてくる社会及び歴史像を鑑みる時、小社の営みが客観的に位置付けされたようで嬉しく、さっそくコピーをとり「必読!」と大書し全員に配った。やはり怒涛の年!
午後8時直前、トイレに立った。テレビのある部屋に戻りスイッチを入れたらNHK大河ドラマ「義経」が既に始まっていた。自分の行動が悔やまれた。身辺スッキリした状態で(!?)と思ったのが裏目に出て、何を措いてもまず見たかったタイトルバックを見逃してしまったではないか!
が、そうではなかった。
確かにスイッチを入れるのが数秒遅れ、一ノ谷の丘に並ぶ馬上の兵たちのシーンが始まっていた。義経の掛け声のもと懸崖を一気に駆け下り、火の手が上がって血で血を洗う合戦の修羅場と化す。かつて身内であった者たちがなぜ敵味方に分かれ争わなければならないのか、白石加代子のナレーションで25年前にさかのぼり、物語が始まる、その幕開けだったのだ。巧い!
装丁につかった白馬はこれか。上空から撮られた白馬はやがて森の中へ入り桜吹雪のなかを正面に向かい疾駆してくる。これが本の表紙だ。よーし、OK! 黛さんの声を真似てテレビ画面に向かって叫ぶ。役者たちが次々画面で紹介され、最後に「演出 黛りんたろう」の名前が出たら、それだけでなんだかうるうるしてしまう。
第一回「運命の子」、平安朝は様式美の世界というだけあって、どのシーンもピシリと決まり美しい。場面ごとにOKを出した黛さんの声が聞こえてきそうだ。役者でいえば、常盤役の稲森いずみさんの美しさは格別で、都一番の美女とうたわれた常盤に相応しい。都落ちする義朝から「子らを頼む」と託されながら、敵の大将にすがるしかなかった常盤に清盛は家屋敷をあてがい、やがて常盤のもとを訪ねる。会見が終り立ち上がるや、清盛は、「夜、お伺いしてもよいか」と常盤に問う。「お待ちしておりましょう」と常盤。夜になり、常盤は一人部屋で待つ。懐剣を取り出し自分の胸元に当てる。と、さっと刀を返し長い黒髪をバッサリ切り落とす。死から生への転換の場面。なんとも残酷で美しい。
清盛役の渡哲也の表情に目を見張る。顔の左半分と右半分であまりに印象が異なっていたから。キャメラはそれを意識してか、しばらく正面から貼り付くように清盛を映し出す。感情に変化がない限りキャメラは固定で撮るという黛さんの言葉を思い出した。
また、清盛の妻・時子役の松坂慶子の演技と存在感に圧倒される。例えば「蒲田行進曲」の小夏役の松坂慶子ではない。男を食ったようなとぼけたセリフ回しでありながら、夫・清盛のこころの深くに触れていくような毒のある言葉だ。この関係もこれから目が離せない。
演出家・黛りんたろうの腕の冴えを存分に見せられた第一回「運命の子」であったが、そもそも稀代の演出家・黛りんたろうをわたしに紹介してくださったのがいちだパトラさんで、彼女がいなければ黛さんと知り合うこともなければ、まして、黛さんの手になる本の出版もあり得なかった。
黛さんのお父上・敏郎さんにまつわる思い出から説き起こし、りんたろうさんとの出会いがご自身のHPで興味深く綴られており、出会いの不思議さに心打たれた。年末惜しくも亡くなられたご尊父の位牌を傍に置き「義経」をご覧になったというエピソードには言葉もない。もう少し本が早く出来ていればと悔やまれる。
かくなる上は、時間の遅れを取り戻して余りある本に仕上げるしかない。いましばらく!
午後出社したら、編集長武家屋敷ノブコが助手となり、すでに暗幕が張られ、部屋が写真スタジオと化していた。
写真家・橋本照嵩は常に完璧を期す。腰をぐっと落とし、足裏を床にペタリと貼り付かせるようにして立つ姿は独特で、32点の葉画作品の撮影に結局丸々8時間を要す。かつて膨大な韓国李朝民画を撮影したこともある橋本さんは、作品の質感まで写し取る。操作される光のなかでシャッターを切る音だけが静かに鳴り響く。呼吸するのも憚られるほどの緊張感だ。
今回は徹夜にはならなかったが、以前、撮影に同行し岡山に行った折、寝る間も惜しんで撮影しているというのに元気のオーラが漲るようで、この人は全身写真家なのだと思った。東日本テレビ開局30周年記念特別企画、北上川をリヤカーで撮影行脚する橋本さんの90分ドキュメンタリー番組は4月放送とのこと。ピンコピンコピンコピンコのあの独特の口三味線瞽女歌も番組の中で披露されるとか。♪向こうに見えるお山はなーに♪ か。
子どもの頃、祖父が牽くリヤカーによく乗せられたそうだ。だから、自分の目線はリヤカー目線なのだと。リヤカーに揺られながら見た驚きの世界と震えが写真家橋本をつくった。