意味ないじゃん

 いつも行くコットンクラブで飲んでいたら、保土ヶ谷界隈でこのところ一躍有名になったナベちゃんが入ってきたので、
 「あれ、ナベちゃん、革ジャンは?」と訊いてみた。
 「うん、着ていない」
 「そりゃ見ればわかるよ。どうしたの?」
 「家に置いてきた」
 「家に?」
 「そ」、ナベちゃん満足気。
 「家に置いてどうするの?」
 「だって、このあいだみたく失くしたら嫌だもん」
 「そりゃそうだろうけど、冬に革ジャン着ないんじゃ意味ないじゃん」
 「平気平気、黒いのもあるから」、と、ナベちゃんあくまで満足気。それに、どうも微妙に会話がかみ合わない。
 「でも、そんなセーターだけじゃ寒いでしょ」
 「寒くない」
 「そんなはずないよ、今日は相当寒いよ」
 「いいのいいの。気にしない気にしない」
 横で二人の話を聞いていたスーさんが、
 「失くしたと思っていた革ジャンが戻ってきたので、それで十分なんだよな、ナベちゃん」
 「……」と、ナベちゃん、やっぱり満足気。
 ふむ。気持ちはわかるけど、おかしいよ、どこか変でしょそれって、だってさ…。
 「ヘ〜〜ックショイ!
 ほらね。

またまた

 昨日、紅葉坂を上りきり息を弾ませ、間もなく会社のあるビルだ、のちょうどその時、一陣の風が頬を撫でたかと思いきや、ベージュ色のコートを羽織った若い女性が自転車に乗って横断歩道を横切った。わたしのほうを向いて頭を下げたようだったから、わたしもそれとなく頭を下げた。わたしにではない気もして、後ろを振り向き確かめたのだが、ほかに誰もいなかったから、やはりわたしなのだろうということで落ちついた。
 ま、いいか、誰であっても、あいさつは気持ちいいもの。
 教育会館のビルに入り、エレベーターに乗ろうと歩いて行くと、さっきの女性がボタンを押しつづけ、エレベーターの中で待っていた。見れば、アルバイトの奥山さんなのだった。
 「おはようございます」
 「おはようございます。奥山さんだったのか。どこのお嬢さんかと思ったよ」
 「奥山さんだったのか。どこのお嬢さんかと思ったよ…」
 「ん!? いや、それはわたしのセリフで…」
 「このあいだも坂の途中で会ったとき、奥山さんだったのか、どこのお嬢さんかと思ったよ、って言われました」
 「ええっ、ほんとう?」
 「ええ、本当です。そっくりそのまま。奥山さんだったのか。どこのお嬢さんかと思ったよ…」
 「わかったわかった。もういいから」
 近頃とみに老人力が付き、専務イシバシと覇を競っている。イシバシのほうがわたしよりも上手だなと思って安心してきたが、どうしてどうして、わたしもどうやら負けていないようなのだ。

新鮮な未亡人あります。

 オビにそう書いてある。近親者の葬儀のために碁盤の目のような道を急ぐうら若き女性。急いでいるのだが、なかなか目的地に辿り着けない。と、ほかにも道に迷っている男性、女性数名、いっしょに走っているうちに喪主まで出てきて、よかったよかった、喪主なら葬儀の場所を知っているだろう。と思いきや、喪主も道に迷ったのだという。喪主が道に迷うなんてことがあるものか、怪しい! 何が怪しいものですか、わたしはこの町に来てまだ一ヶ月、道に迷って当り前、そういうあなたこそ誰なのよ、親戚にも友人にもあなたのような人がいるなんて聞いたことがないわ、わかった、あなた未亡人荒らしね。なにを馬鹿なことを。横の女性が、なに、その未亡人荒らしって? 知らないのあなた、未亡人の悲しみにつけこんで近寄り、奥さん奥さんそんなに気を落とさないで、なんて言いながら襟の合わせ目から手を入れ、キャーなにをなさるのです。奥さん、亡くなった人のことは早く忘れるのです。いけませんそんなこと、ああっ、夫の遺影の前でそんな、でも、それがとても背徳的でグー!
 そんなようにして始まる「大葬儀」を筆頭に集めた、奇劇漫画家カゴシンタロウ粉骨砕身傑作短篇集(オビのキャッチコピー)が『大葬儀』だ。表題作のほかに八つ入っている。
 何でも輪切りにしたがる男が出てくる「DISC」では、なんでもかでも輪切りにし、その穴に自分のものを突っ込む。女体を輪切りにし、下半身裸になった男は、10センチほどの厚さになった女体の腰を裏から自分にあてがってみたりする。「遠目塚先生の優雅な愉しみ」では、過敏肌の会なるものがあって、肌の弱みを積極的に楽しもうとする主旨なんだそうだ。その会の会員は、保湿クリームなどは厳禁で、わざと皮膚を乾燥させ、風呂には入らず睡眠時間を減らし仕事でストレスを溜め、痒くなってきたら、ひたすら掻く。掻き毟る。道具を使ったり、会員同志、痒いところを擦り合わせたり…。まあ、読んでいるとこっちまで痒くなること必至!
 普通なら著者・駕籠真太郎と書くべきところ、喪主となっている。葬儀だから喪主なのだろう。そうとう変わった漫画だ。いま、左手の甲が痒くなったよ。

『悲しい本』

 変わったタイトルの絵本だ。
 日曜日、二十年前からたまに行く本屋さん(あの頃は息子がまだ小さく、クルマを道路の脇に停め、肩車をして本屋に通ったものだ。息子は、ほかの子と同じように肩車が好きだった)に入ったら、入口近くの「最近出た本」のコーナーに三冊、置かれてあった。
 谷川さんが訳しているから手に取ったのかもしれない。変わったタイトルの絵本だからかもしれない。ちょっぴり悲しい気分だったからかもしれない。三つ合わさって、だったかもしれない。
 1ページ目を開いたら、眼がぐりっとした、ひげもじゃの男がニカーッと笑っている絵が描いてある。どうしたのだろうと思ったら、下にこうある。
「これは悲しんでいる私だ。/この絵では、幸せそうに見えるかもしれない。/じつは、悲しいのだが、幸せなふりをしているのだ。/悲しく見えると、ひとに好かれないのではないかと思って/そうしているのだ。」
 そうか、そういうことか。
 絵本だからすぐ読める。でも、ここに描かれた悲しみはそう簡単には読めない。絵本を読んで気づかされるのはむしろ自分の悲しみ。カネやオンナに溺れるということがあるけれど、悲しみに溺れることもある。歳をとるにつれ、そのほうが多くなった気もする。深く大きな悲しみには太刀打ちできない、溺れるのが関の山だ。でも、たまには、絵本の中の男がするような仕方で、じっと、自分の悲しみをみつめるのはどうだろう。それしかないかなと思えてくる。今流行りの喫茶店でおしゃべりしている男たちだって、自分の悲しみまではしゃべっていないのだろう。しゃべる言葉をみつけるのはむずかしそうだし、そもそも名付けられない悲しみもあるはずだから。
 変わったタイトルの本だけど、いい絵本だと思った。

『オールド・ボーイ』の原作と映画

 原作よりも面白いと評判の映画『オールド・ボーイ』を観て来た。
 原作も映画も、主人公が、理由を知らされずに長く(原作では10年、映画では15年)監禁されることは同じだが、物語のテーマは大きく異なっている。これから観る人のために、それに触れることは差し控えなければならないが、ありきたりだけれど、別物と思って観ていいのではないかと思った。
 映画は2時間近く、ぐいぐい引っ張っていくから、やはり、よくできた映画だと思った。観終わって映画館を出た時、それまで疲れていた体も頭もシャキッとしたし。
 だが、原作では現代日本の東京が舞台になっていること、映画では韓国の都市(ソウル?)が舞台になっていることで、物語はおのずと違ってくる。
 映画では、監禁する側(イ・ウジン)もされる側(オ・デス)も、少年時代は、ちょっと変わったところがあっても(ウジンは写真が趣味の大人しそうな少年、オ・デスは少々ワル)、それほどではなく、どこにでも居そうなごく普通の少年として描かれている。かつて教室で起きたある事件(?)に関わっていなければ、監禁は起きなかっただろう。そのように映画は進むし、リアリティーもある。
 ところが原作では、監禁する側(柿沼)もされる側(五島)も、いわばモンスターだ。柿沼が冷酷無比なそれであれば、五島は、今の日本にこんな男いるのかよと思うぐらいのヒューマニスティックなそれ、二人とも現実世界にはあり得ぬぐらいの。つまり、監禁という事実を、映画では現実世界で起こり得るものとして描くために、重い事実を過去に設定せざるを得なかっただろうのに対し、原作では逆に、そんなことで10年も監禁するかよと思うぐらいに結末がショボい。小学校時代のそんなことを恨みに思って誘拐監禁してしまうなんてことがあってたまるか、と。しかし、そのショボさを補填しているのが二人の性格描写だ。また、そういうモンスターを生じさせてしまう何かが今の東京にあるということかもしれないが。
 それと、これは『オールド・ボーイ』に限らずだが、漫画には漫画特有の空気感とでもいったものがある。たとえば『オールド・ボーイ』の原作なら、不気味な柿沼を丁寧に描いてきて、ある時、柿沼が所有する船(柿沼は信じられないぐらいの大富豪になっている)の上、デッキチェアで寛ぐ柿沼を遠景で描いておいて、それから徐々にアップで描けば、吹き出しがなくても、あの不気味な表情(柿沼は生まれつき異様に鼻がデカい!)の裏にあるものを読者はいろいろ想像してしまう。その想像が楽しい。
 ということで、映画も原作も、ぼくとしては両方★★★★★だ。

カレンダー

 来年のカレンダーと手帳を買うのが年末のひそかな楽しみ。
 手帳は例年のごとく、高橋の手帳No.78で、特に問題なし。問題はカレンダーのほうで、大きく外してしまった。小さく写った表紙写真をネットで見て判断したのがいけなかったのだ。
 宅急便が会社に届いたら、皆、仕事の手を休め、ぞろぞろと集まってきて(だいたい、なんでそんなに集まって来んだよ)、見せてください、見せてください、ねえ、ねえ、見せてよ、シャチョー、ねえってばあ…。
 ああ、悔やまれる、見せなければよかった。自分ひとりで失敗を飲みこんでいればよかったものを、社員思いのこころが徒となり、つい、見せてしまった。
 そうしたら、若頭ナイトウは両手の人差し指を交差させ、バツ、バツ、バツだし、たがおは言下に「これ、ダメでしょ!」(一刀両断!)、愛ちゃんはケラケラケラケラ笑うばかり(涙まで流さなくったっていいじゃない)だし、武家屋敷は憐れむような目でわたしを見ている(これ、結構こたえた)し、もう、おれイジけた、完璧イジけたよ。
 家に持って帰り、ひとり静かに、このカレンダーに対面しながら、このカレンダーのいいところをどこか見つけようとしたのだが、無駄、無駄でした。でも、あんなに皆に悪く言われると、捨てて、代わりのを買うのもなんだか気がひけるしさ。あーあ。

頼み方

 仕事のことでなく、蕎麦、うどん。
 JR桜木町駅を出てすぐのところにある立ち食い蕎麦屋・川村屋は「おつゆにこだわっている」んだそうだ。店内、あちこちにそう書いてある。アピールするだけのことはあり、実際に、おつゆが美味い。
 そういう川村屋なので、いつも客でごった返している。ぼくは、「トリ肉ワカメうどん」をよく頼むのだが、以前、たがおと二人、渋谷まで出かける際に店に入り、例の如く、「トリ肉ワカメうどん」を頼んだ。そうしたら「トリ肉ワカメ蕎麦」が出てきた。ま、いっか、で、そのときは不平も言わず、黙って食べた。
 が、その問題をずっと考えてきて、また、店で働くオバちゃんたちを見てきて、あることに気がついた。
 たとえば、ぼくが、「トリ肉ワカメうどん」を頼んだとする。トリ肉はひとり分ずつ小鉢に入れてあり、それをまず用意する。えーと、トリ肉だけじゃなく、確かお客さんワカメもって言ったな(「トリ肉ワカメうどん」を頼まれたオバちゃんのこころの声)、そういう情報が錯綜しているうちに、うどんを頼まれたことを忘れる。無意識のうちに、比率的に多く頼まれる蕎麦のほうを金網のざるに入れ、湯に突っ込む。それがどうも「トリ肉ワカメうどん」を頼んだのに「トリ肉ワカメ蕎麦」が出てきた原因だったようだ。
 また、さらに重要なポイントは、蕎麦にしろ、うどんにしろ、茹でる時間は絶対的に掛かるから、オバちゃんたちにしてみれば、天ぷらだとか玉子だとかトリ肉だとかワカメだとかを言う前に、まず、蕎麦かうどんかを伝えて欲しいところだろう。蕎麦ですか? うどんですか? と、運動会のマラソンで先頭きって走っていた少年が、踏み切りで足止めを食らい遮断機が上がるのを足踏みしながら待つような、きっと、そんな気分に違いない。
 そこで、わたしは提案したい。立ち食い蕎麦屋で蕎麦かうどんを食う時には、修飾的なものを言う前に、まず、蕎麦かうどんのどちらかを告げること。オバちゃんたちの行動順序を踏まえ、オバちゃんたちが絶対に間違わないような頼み方を、こちらがすればよいのだ。以下はその参考例。
 「ごめんください」
 「はい、なんにいたしましょう」
 「うどん」
 「うどん、ね。うどん、と」(ここで、オバちゃん、うどんを金網のざるに入れ、湯に突っ込む。オバちゃん、安心)
 「何かお入れしますか?」
 「トリ肉とワカメ」
 「はい。トリ肉とワカメね」
 完璧! 間違いなく「トリ肉ワカメうどん」が目の前に供されることになる。合いの手の要領で、次の行動を促すタイミングで頼むことが肝要だ。以来、わたしは常にそのような頼み方をしている。
 「うどん」
 「うどん、ね。うどん、と」(ここで、オバちゃん、うどんを金網のざるに入れ、湯に突っ込む。オバちゃん、安心)
 「何かお入れしますか?」
 「天ぷら」
 パーフェクト!
 昨日、またまた、たがおと渋谷に行く用事があったので、川村屋で腹ごしらえをしてから電車に乗ることにした。道々、わたしの発見を厳かにたがおに伝え、川村屋に向かう。
 昼近くのこととて、店内は、さらにごった返している。わたしはいつもの要領で、「うどん」「うどん、ね。うどん、と。何かお入れしますか?」「トリ肉とワカメ」。次にたがお。「蕎麦」「お蕎麦ね。お蕎麦、と。何かお入れしますか?」「天ぷらと玉子」。たがおは、わたしの教えを忠実に守り、難なく「天ぷら玉子蕎麦」をゲット。二人とも、つゆを最後まで飲んだのは言うまでもない。めでたしめでたし。