お盆

 きのう、亡くなった祖母が夢に出てきた。まだ七月だから帰ってくるのがちょっと早い。正月とお盆はこのところ故郷で過ごすことが多く、今回も既に新幹線の切符を取った。わたしの性格からして予約チケットなど取りたくないのだが、「こまち」には自由席がないのだから仕方がない。
 お盆にはご先祖さまの霊が帰ってくる。それは民俗学のテーマかもしれないが、学問とは関係なく直やかにこころに想起される。田舎に帰り、歩いて行くこともあれば面倒臭くてクルマでわっと行くこともあるけれど、墓参りへ向かう途中途中で目にする家並みは、屋根や壁は新しくなっていても位置まで変わったわけではなく、なつかしい。また、一年に一度の霊を迎える儀式に臨み、静かに華やいでいるようにも見える。玄関先から猫のように子供が飛び出してきて、見れば、昔この辺で見かけた子に似ていると感じることもしばしば。同級生の子ならもっと大きいはずだから、そのまた甥っ子、姪っ子でもあろうか、それでなければ幼くして亡くなった死者の霊かも知れぬのだ。
 お盆には花火。同級生と語り合ったり親戚一同集まってのドンチャン騒ぎはまさしくこの世の花火で、盃の縁にも霊は宿っている。終ればシーンとした闇の中で大人しく眠りにつくしかないけれど、霊を迎えることでこころに甘い蜜が注がれたように思えるのは、ただ気のせいばかりとも言えない。酔いは一層まわり眠りはさらに深くなる。そういうことは誰も口にしないけれど、ずっと村々家々に引き継がれていて、朝起きて夜眠るまでのつとめを一年、今日も一日、元気でつつがなく果たすための原動力になっているに違いない。
 さて祖父は。生前と同じにちょいときざな帽子を被り、軽装な身なりで帰ってきては「お、帰ってきたか」と反対に、きっと声をかけてくれるだろう。最晩年、「おまえはすこし酒を飲み過ぎる」と注意されたことがなつかしく、今となってはありがたい。