そこを通るといつもほんのり甘いパンの香りが漂ってきた。かもめパン。詳しいことは知らないが、横浜のこの地でパンを製造販売しているらしい。横浜街道沿いに小さい店があるが、1本裏手に入ると工場があって配送の車が並んでいる。小さい店は小さいながら、製造販売元のかもめパン直営だろうから出来たてほやほやのパンがいい香りを発するのもうなずける。
井土ヶ谷の、休日、散歩がてらたまに行く寿司屋で昼食を済ませ、帰りしな、初めてかもめパンの店に入ってみた。どこといって特別な感じはないけれど、おしゃれなチェーン店のパン屋とは違う懐かしさが漂っていて心地よい。ほんのりとしたパンの香りもチェーン店とは違う。店のおばさんが客と楽しげに話しているのも、見ていてなんだかうれしくなる。メロンパンとあんドーナツを買って帰る。懐かしい味に舌鼓を打った。
いやだなあと思ったり、ぶつぶつ文句を言いたくなるときもあるけれど、仕事があるということはやはりありがたい。
きのうは再校ゲラのチェックで1日が終わった。A4で約50枚。進んだほうだろう。細切れの仕事だと時間の経つのも細切れでなかなか進まないように感じるけれど、ひとつの仕事にじっくり腰を据えて取り組んでいると時間の経つのも早く感じるから不思議だ。夕刻、机を離れ軽い体操をするのもなんだか気持ちいい。
神奈川県の昨日の天気予報は夜になって雨。朝、出掛けに空を見るとほとんど快晴だったから、そんなことあるかいと高をくくり傘を持たずに出勤。一日の仕事が終わり、天気予報のことなどすっかり忘れて勝手口から外へ出たら雨が降っていた。天気予報も当たることがある。いま出てきた勝手口はオートロックになっていて入れないからぐるりと廻って反対の勝手口から再びビル内へ。正面玄関はすでに閉まっている。たった数分のことなのに、とても無駄な時間が流れた気になる。
「お世話になっております。S社のY本です」と電話口でY本さんは言う。こちらがどんなに慌てて電話し取り次いでもらっても、Y本さんは慌てず騒がず落ち着いて「お世話になっております。S社のY本です」。Y本さんは営業なので外出している時もある。そういう場合は、申し訳ないがY本さんから電話してもらうように依頼する。程なく会社の電話が鳴り、Y本さんのケータイ番号が表示され、サッと受話器を取る。Y本さんとわかっているので、「あ、Y本さん。お呼び立てしてごめんね。ちょっと急ぎで…」と話し始めるのだが、礼儀正しいY本さんはやっぱり「お世話になっております。S社のY本です」
Y本さんは月に数度、わが社を訪れる。ドアをノックして部屋に入ってくるなりここでも「お世話になっております。S社のY本です」。仕事の打ち合わせを終えると、Y本さんはおもむろに立ち上がり社員全員に、方向を変えてちゃんと向き合い挨拶してから帰っていく。こういうY本さんだから、仕事がきちんとしており、間違いがない。
夕方、営業の奥山さんがツーと寄ってきた。仕事上の報告か相談事かと身構えたが、違った。曰く「『大菩薩峠』全巻読み終えました」。「そうか」。拍手ーっ!! 社員一同で。パチパチパチパチ…。『大菩薩峠』はなんといってもすごい小説なので、わたしは社員のだれかれとなく薦めてきた。が、全巻読破したのは奥山さんが二人目。えらい!「勝小吉の『夢酔独言』からの引用は19巻と20巻でした」。「そんな最後のほうだったかな。そうか」と読んだ者でなければわからない会話。勝小吉は海舟の父。中里介山は小吉の自叙伝『夢酔独言』を読み、面白いというので自分の小説の中にちゃっかり引用し紹介している。現代の感覚からすれば、あんな大量の引用って許されるのか、とも思うけれど、人間界の諸相を曲尽して、大乗遊戯の境に参入するカルマ曼陀羅の面影を大凡下の筆にうつし見んとするにあり、ということだから全てOKなのだろう。
休日ともなると、このごろは寒くて外出するのも億劫になる。きのうは午前中行き付けの歯医者に行き、戻ってきて昼食。昼寝をし、ごろごろしていたら、あっという間に夕刻となり、夕飯のオカズを買いにフジス−パーへ。買い物を済ませ外へ出たら誰かが「雨が降ってきたぞ」と。ほんとだ。小雨。こんなに寒いのに雨か。♪雨は夜更け過ぎに… なんて歌があったな。寒さをこらえ我が家へつづく急勾配の階段を上っているうちに、雪に変わることなく雨はすでに止んでいた。テレビを見ながらの夕食。デザートはいちご。
カメラマン橋本さんの写真と文章がある雑誌に連載されている。橋本さんは原稿が仕上がるとわたしのところにFAXしてくる。わたしは校正しながら入力し、意味の曖昧な箇所は電話で本人に確認する。言わんとすることが込み入っていて大変な時もあるが、丁寧にやっていると、底から太い幹や根が浮き出てくるようで面白い。橋本さんの文章には写真と同様、眼が生きて働いている。
きのう送られてきたFAXには娘さんが幼かった頃の思い出が記されていた。のびのびと野性的に育っていた娘さんがあるとき幼稚園で描かされた絵を持って帰ってきた。黄色の太陽から黄色の光線が放射状に放たれている、よくある絵。橋本さんはそれを見て激怒した。即刻娘を外へ連れだし抱き上げ顔を両手で挟んで太陽に向けた。よく見てみろ! よく見てみろ! と叫んだ。奥さんが二人の姿を見て飛んできた。バカヤロー! 娘の目をつぶす気かあ! 眼の人橋本の面目躍如のエピソードでじーんとした。
