安心立命

 好きな『大辞林』によれば、「あんじんりゅうみょう」「あんじんりつめい」「あんしんりつめい」「あんじんりゅうめい」と言ったりするそうで、信仰によって心を安らかに保ち、どんなことにも心を乱されないこと、とある。初め儒学の語であったが、のちに主として禅宗の語として使われ、その後、広く使われるようになった、とも。
 「初め儒学の語」という言葉に眼が止まった。飯島耕一さんの『アメリカ』『白紵歌』、また『江戸文学』32号に掲載された「江戸と西洋」を読んだからだ。以後、その関連で「天」の文字をしばしば思い浮かべるようになった。儒教の「儒」が「柔弱の意」でもあると教えてもらった。『白紵歌』のオビには「イズムの時代は終わった。あとは天に聞け。」の言葉も見える。先月、読売新聞に毎週水曜日掲載された「仕事私事」というコラムの最終回には「川と天だ。」の言葉が泰山のごとくデンとそこにあり、のびのびと、こころが晴れ晴れしていく気がしたものだ。
 今の時代には今の時代の神経症があるのだろう。駅のホームに立ち、轟音をたてて通り過ぎる新幹線を見れば何事かと思う。こんな固いスピードを目の当たりにしたら漱石や竜之介なら、なんと思うだろうか。歩くスピード、リヤカーを引き引き撮影行脚をしぶとく繰り返してきたカメラマン橋本照嵩のスピードを思う。
 命のことは、風呂で体を拭くぐらいならできても、ほかは自分ではどうすることもできない。人は大きなものに触れて初めて柔らかに息深く安心するのだろう。大きなものが見えなくなれば、また見ようとしなくなれば、どうしたってこころは揺らぐ。

京の水

 夢で京都に行ってきた。京都は川と水、川がなければ死んだも同然…。枯れ野を走るタクシーの運転手がそう言った。
 高校の修学旅行以来だからちょうど三十年ぶり。いろいろ回ったなかで、金閣寺よりも銀閣寺よりも、清水寺がその後たびたび夢に現れ、細部にわたってしっかりと映像が目に焼き付いている。
 参道に並ぶ店店の賑わいも三十年前とちっとも変わらずそこにある。靄に煙る京の山々が千年のパノラマを見せてくれる。若い娘たちはタンクトップ姿で左手階段を登り縁結びの神様へと急ぎ、杖と笠を手に持つお遍路さんたちは喉を伸ばし長いひしゃくで不老長寿の水をゴクゴク飲んでいる。寸分たがわぬ景色にわたしは見とれていた。
 立木のなかを樹液が絶えず流れるように、体にも流露するものが流れているということか。
 石の道 雨呑み込んで 秋を待つ
 かんざしの 目元すずしや 初舞妓

風と水

 Dr. コパの風水かよ? そうではなくて。
 会社経営の要諦は、世の動き、風の流れを事前に察知し進むべき方向を違えることなく生産活動にいそしむことである、みたいなことをよく聞く。がしかし、風の流れを読むということは相当の匠(たくみ)か経験を積んだ知恵者でなければできぬ業。だから、「風を察知」といわれても、日経を読むぐらいが関の山で、自分の小さな会社にどんな風に応用するかとなると、途方に暮れてしまう。そんなことよりも水だ。
 風のイメージが天才を思わせるのに対して水は、もっとゆったりしており、でも確実にそこにあり、後から効いてくるイメージがわたしにはある。富士山に降る雨が土を湿らせ地下へもぐり、何十年も経た後に湧水となって三島の町を潤すような時間の恩恵を感じさせる。
 風でなく水のイメージはまた人と人のつながり、縁をも感じさせる。縁を大事にするということは、すぐに仕事に繋げようと考えることではないだろう。肩の力を抜き、まぁ、よく相手の話を聞くし自分の感じているところを素直に、しかし失礼のないように忌憚なく話すことではないかと思う。意匠はこのごろとても嫌でうっとうしい。頭で考えないわけではないけれど、ぴりぴりアンテナを張ることを極力廃したい。それよりも、流れ流れて足下の水を感じ、その水の流れに身をまかせて行くほうがなんだか楽しい。そんなことを考えていたら、本当に北上川や源平川、鴨川が仕事の射程に入ってきたから、こりゃつくづくおもしれぇなあと思うのだ。

くさむら写真

 橋本照嵩来社。写真集『北上川』の下版前最終チェックと次の写真集『叢(くさむら)』のための写真を持ってきてくれたのだ。
 かつて『アサヒカメラ』に連載、さらに、ミノルタがスポンサーになって写真展も開いたそうだが、まだ一冊にまとまっていない。前から見たいと思っていたものだ。橋本さんが床にずらり並べた大判の写真から強烈な草いきれが立ち昇ってくるようであり、青草、枯草の匂いに包まれた子供の日のわけのわからぬもやもやした歓喜が一気によみがえる。くさむらの草は生そのもの、欲情せずにはいられぬ。女の裸を初めて見たのも川で泳いだ後のくさむらだった。左官屋の娘。水玉が弾かれるようにわたしの青い視線も弾かれた。ク〜ッ!
 それはともかく、くさむらの「くさ」はもちろん「草」だが、臭いの「くさ」であり鎖の「くさ」であり腐るの「くさ」でもある。一方、くさむらの「むら」は、村田製作所の「むら」であり人形師辻村ジュサブロウの「むら」でありローズ・ムラムラの「むら」でもある。なんのこっちゃ。分かる人には分かる。分からない人にはさっぱり。
 というわけで、この叢写真、匂いの写真家橋本照嵩の真骨頂ともいうべきものだろう。編集者の腕が鳴る。闘志がむらむら湧いてきちゃ!!

誤植

 記憶が定かでないので固有名詞は控えるが、日本を代表する有名な国語辞典の新版が出たとき、誤植が二十数箇所見つかった中に、「誤植」が「娯植」になっていたという、話としては出来すぎの、もしそれが本当なら、作り手としては冷汗ものの誤りがあったという事実を聞いたか読むかしたことがある。出版社として誤植ほど恐ろしいものはない。
 わが身の恥をさらすようだが、小社の本にももちろん誤植はある。本が出来た後で気づくこともあれば、読者から教えていただくこともある。正誤表を入れるか増刷の際に直すしかない。最近の例では、朝日新聞の書評欄にも取り上げられたソローの『ウォーキング』だが、「西漸」の言葉が「西斬」になっている箇所があった。東に興った文明・勢力が次第に西方に移り進むという意味の「西漸」が、進んだ先の西を一刀両断のもとに「斬」って捨ててはいけなかった。さんずいがあるかないかの違いに過ぎないが、意味ということになればこれほど違う。
 わたしが先日下版した『新井奥邃著作集』のパンフレット、完璧だと思っていたのに、色校正紙が出来てきたのを見て、読点「、」が間抜けにもダブルで「、、」になっている箇所を見つけた。本『著作集』の特色として「別巻には○○○○を収録し、研究の便宜を図った」と当初していたところに「研究」だけでなく「読解」という言葉も入れるべきと判断し、入れるのはいいが、よけいな読点まで入れてしまい、「別巻には○○○○を収録し、、読解、研究の便宜を図った」となっていた。厳めしい漢文調なのに「、、」は相当間抜け。急いで訂正し、正しい版下を印刷所の人間に渡した。

パンフレット

 『新井奥邃著作集』の新パンフの色校正紙が印刷所から届く。パンフレットのことになると必ず思い出すことがある。
 以前勤めていた出版社では印刷機を持っており、本もパンフレットも自前で印刷していた。印刷機には一色機、二色機、四色機があるが、当時その会社にあったのは一色機。二色刷りにしたいときは、一色目の、たとえば青色を刷り、十分に乾かしてから二色目の赤色を刷るという、非常に職人的、高度な技術を要した。紙というのは印刷すると水分を含み伸びるため、複数回印刷機を通して上手い具合に合わせるというのは、とても難しい。墨一色の場合は機械をガンガン回せばいいだけだが、二色となるとそういうわけにはいかない。
 パンフレットづくりがだんだんおもしろくなってきた頃、社長に内緒で印刷係のNさんにあることを依頼。「いいんですか。社長に怒られても知りませんよ」。Nさんそう言いながら、嬉しさを押し隠すようにして印刷機を回し始めた。職人というのは、困難なことを依頼されればされるほど闘志が湧くものらしい。三色刷りのパンフレットをわたしはNさんに頼んだ。
 同じ紙を機械に二回通して合わせるのでさえ難しいのに、三回通して、「口」と「十」と「土」を合わせて「里」の文字を作るような至難の業をNさんはこなし、細心の注意を払い、紙の伸びまで計算に入れ、わたしの要望に応えてくれた。それまで見たことのないような三色刷りのきれいなパンフレットが出来上がった。と、二人抱き合ったのも束の間、Nさん、「あっ!」と言うなり固まってしまった。ん? どうした? なに? なに? いま喜んだばっかりなのに…? なに? なによ? 詰め寄ると、Nさん、刷り上がったばかりのパンフを持つ手を震わせながら、「三浦さん、こ、このパンフ、どこにも社名と住所が入っていませんよ!」「な、なぬっ!」
 三千枚刷ったパンフレットに肝心かなめの社名と住所がどこにも入っていなかった。色の組み合わせのおもしろさに心を奪われ、大事な情報の確認がおろそかになってしまったのだろう。社長には当然こっぴどく叱られ、社名と住所を改めて印刷、パートの方たちの手を煩わせ、小さな短冊にカットし三千枚のパンフレットに糊付けした。してもらった。ウチの総務イトウは、そのとき社名と住所を糊付けしてくれた者の一人。『GHQの社会教育政策』みたいなタイトルの本のパンフレットだったと思う。忘れられない。

不思議いっぱい

 来月十一日に「田中正造と新井奥邃に学ぶシンポジウム」が開催されることになり、ふたたび自分の人生を振り返り、何度も言っているから耳だこの人もおありだろうけれど、不思議なもんだなあとつくづく思うのだ。本当は『新井奥邃著作集』全巻完結を祝し! とでもなれば営業的に最高だったが、そこはそんなに上手く運ばなくて、新しいパンフレットを用意するだけとなった。
 新井奥邃を知ったのは大学三年生の時。林竹二の『田中正造の生涯』(講談社現代新書)の中。同じ頃、友人から『ことばが劈かれるとき』をもらい、竹内敏晴の名を知った。だいたい奥邃の「邃」の字、読めなかったし書けなかった。「すい」と読み「深く穴をほる意」。
 林竹二の本を読み、授業の写真を見、教師になりたいというよりも、林先生がやったような授業をしたくて教師になった。授業を少しでもリアルなものにしようとの意図から竹内演劇研究所に通いもしたが、三十で学校を辞め、研究所で知り合った友人の誘いもあり、東京の出版社に入った。そこで丸十年。復刻が中心の学術系出版社だった。
 入社二年目に、永島忠重が編集した『奥邃廣録』の復刻を企画として社長に話したら、「おれが知らないような人物の本が売れるはずない」と言下に言われた。お願いします、お願いします、お願いしますと三拝九拝、百姓が年貢の高を下げてもらうべく切実、懇願するように食い下がり、やっと了解を得て本にした。すると、五万五千円のセットが一ヶ月で三〇〇セット完売、すぐに増刷! 復刻で増刷はなかなか珍しかった。個人で二セット買ってくれた人もいた。プロジェクト・エ〜〜〜〜ックス! てか。ほんとそんな感じだったよ。
 本は売れ、社長には可愛がられ、また何よりも、奥邃の文章を初めてじっくり読むことができた。その仕事の関係から、以後ずっとお付き合いいただくことになる新井奥邃記念会の幹事・工藤正三先生とも知り合うことができた。
 こんなふうに書いてくると『新井奥邃著作集』を出すために出版社を起こした、と言うことができるかもしれない。実際、営業の石橋はそう言っている。けど、そう言い切られると少しビビる。いや、かなり。なぜなら、勤めていた会社が倒産し外へ投げ出された時、安い料理屋の二階で石橋と写真家の橋本照嵩と三人飲んでいて、さあどうしたものかと考えあぐね、しばし時が経ち、不意に思いついて「会社つくっちまおうか!」となって作った会社だからだ。こころざし一本愛情一本で作ったわけではない。だから「『新井奥邃著作集』を出すために」とやられると、こそばゆい。真面目な顔を押し通せない。通りが良さそうなときは、こそばゆさを我慢しつつ「はい。そうです」と踏ん張ってはいるが…。
 そういう経緯をつらつら考えると不思議だなあと思うのだ。でも、それがリアルな現実かとまた一方では思う。読者が少しずつ広がって、今年は遂に、和漢洋なんでも来いの詩人・飯島耕一さんが『江戸文学』で奥邃を紹介してくださった(『著作集』最終巻月報に執筆してくださることが決定! 有難し!)。出版人冥利に尽き、喜びに打ち震えている。この本を出すために、おいらのこれまでの人生は用いられたのだと、旭日を拝みながら感慨に耽ることもある。気が満ちている時は特にそうだ。