電話

 ホンダゼストのテレビCMで木梨憲武が被っている帽子のメーカーが知りたくて、ホンダに電話した。受付の女性がていねいに応対してくれ、手持ちのデータには記載がなく管理部に確認してから連絡するので少し時間がほしいとのことだった。二日経っても連絡が来ないので諦めかけていた。いちいちあんな問い合わせに答えていたんでは仕事にならないものな…。ところが昨日の午後、ホンダから電話があった! 曰く、木梨さんが被っている帽子のメーカーは分からないが、購入先の店は分かる、云々。さっそくメモを用意し、店の住所、電話番号をひかえ、お礼を言った。本当に調べてくれたんだ。教えてもらった店に電話をし、ほしい帽子を告げると、今月九日頃の入荷予定だという。MとLの二つのサイズを取り置きしてもらい、入荷後、連絡をもらってから店に出向くことにした。

三寒四温

 一月が終わり今日から二月。朝、目が覚め、今日は寒そうだなと思ったら、出掛けにホッカイロを背中に貼る。そんなときに限って気温が上昇し、紅葉坂を上りながら額にうっすら汗をかくこともある。三寒四温は、シベリア高気圧が一週間ぐらいの周期で寒気を吹き出すために生じる現象だそうで、日本では三月上旬がその期にあたるらしい。しかし、なんでもかんでも早くなっている時節柄、シベリア高気圧も早め早めに吹き出しているのではないだろうか。お日様は昇ってきたけれど、今日もなんだか寒そう。

祈り

 今其れ人を愛するに於て一法有り。人工の法に非ず。姑(しば)らく之を循環黙愛と謂はむ。何ぞや。譬えば此に友十人ありとせん。我れ静黙以て日に其一人を胸裏に特愛し、十日にして全部に及ぶ。終りて復た始まる。循環して已まず。諸友各々亦此の如くす。此れ集団を神愛するの一法也。(1904年「信感第二」『新井奥邃著作集』第二巻327頁)
 作家の五木寛之と気功師の望月勇の対談集『気の発見』のなかに、昔の人は祈りを感知できたという話が出てきて、それほど違和感なく読めたのは、上の奥邃の言葉が引っ掛かっていたからだろう。

ホンダゼストのテレビCM

 このごろ何とはなく強い興味を無くし、ふらふらしていたのだが、木梨憲武と中島知子が出ているテレビコマーシャルを見て、木梨が被っているあの帽子、いいなあと思った。いくつかバージョンがあるうちの象が出てくるコマーシャル。薄いグレーのハット。インターネットで調べてみたが、ヒットしない。そうしているうちに、気が萎えてきて、いいやもう、と思うようになった。そのとき、ふと、飯島耕一さんの詩の一節を思い出した。
何にもつよい興味をもたないことは
不幸なことだ
ただ自らの内部を
眼を閉じて のぞきこんでいる。
何にも興味をもたなかったきみが
ある日
ゴヤのファースト・ネームが知りたくて
隣の部屋まで駆けていた。
 きのう、ビルの公衆電話からホンダに電話し訊いてみた。ゼストのテレビCM象篇で木梨が被っている帽子のメーカーが知りたいのですが。電話口の女性は丁寧に応対してくれ、しばらく間があってから、管理部に確認しないと分からないので少し時間をくださいとのこと。わたしは、自分のケータイの番号を告げ、お礼を言って電話を切った。
 正直に言えば、飯島さんの詩を「思い出した」のではない。ずっとあたまに引っ掛かっていた。その詩に後押しされるようにして、少し勇気をふるって電話したのだ。あまり詩を読まないわたしが好きな詩の一つ、「ゴヤのファースト・ネームは」

コタツマスク

 昨年末、風邪を引き、治ったかなと思うとまだなんとなくぐずぐずするので、このところマスクをするようになった。歯医者に行ったら歯科衛生士に、「マスクが標準装備なんですね」とからかわれたり。
 さて、そのマスク、実際に装着してみると、これというものがなかなか無い。耳にかける紐がすぐに伸びてしまい、マスクの役を果たさないものあり、眼鏡がすぐに曇って、曇らないようにするためにはどうしても鼻からずり下げなければならず、何のためにマスクをしているのか分からないものあり。
 ところが、先日、これはというものにとうとう出合った。白元から発売されている「快適ガードプロ プリーツタイプ」使いきり5枚入り450円(ぐらいだったと思う)。眼鏡は曇らないし、紐がビロ〜ンとだらしなく伸びることもない。それに、鼻のところにクッションが着いているので、装着したとき口の周りが自由で気持ちいい。着けているのを忘れるぐらい。ちょうどコタツに入れた足を自由に伸び伸びさせているような感じなのだ。コタツマスクと呼びたい所以。

蜘蛛

 部屋にときどき蜘蛛が出る。きのうも。朝、起き掛け、布団のうえに小さい黒い蜘蛛がいたから、捕まえて逃がしてやろうと思った。そっと手を近づけ掴もうとするのだが、素早い動きですり抜ける。何度か試みたのち、やっと捕まえ、つぶさぬように、結んだ手のひらが空洞になるようにしてベランダまで運び、手のひらを開いた。ところが、手に張りついてなかなか離れてくれない。ササッと二、三度振ったら、やっと離れてコンクリートの上に落ちた。窓を閉め、しばらく見ていたのだが、動かない。いつもなら蜘蛛の子を散らすように逃げていくのに、どうしたのだろう。もしや、手を振って落としたことでスピードがつき、怪我でしたのだろうか。心配になり、窓を開けもう一度ベランダに出た。指で少し蜘蛛を押してみた。動きが鈍い。やはり怪我をしたのか。申し訳ないことをしたような気になり、サンダルを脱いでまた部屋に戻った。
 ソファーで少しうとうとしたようだ。太陽の光が暑いぐらいに窓から差し込み、ハッと眼が覚めた。窓のところに行ってみると、さっきの蜘蛛はどこにも見当たらない。暖かくなって、元気を取り戻し、どこかへ逃げていったのだろう。

文章の顔

 旧友でカメラマンの橋本照嵩さんがぎょうせいの雑誌「悠(はるか)」に連載しているコラムが今度で最後を迎える。橋本さんは原稿ができるとわたしのところに送ってくる。それに手を入れてから「悠」編集部にFAXする。以前もここで触れたことがあるが、改めて眼の文章であると感じた。見たものが映像としてクッキリしており揺らぎがない。荒削りの文章を最初見ただけではそのことは分からないのだが、何度か読んでいるうちに、また、どうしても分からないところは本人に確認したりして文章を整えていくと、次第に文章の顔とでもいったものが見えてくる。映像から文章になったものを、今度は文章から映像が浮かぶように彫琢しなければならない。写真と文章から浮き彫りになるのは全身写真家の眼の動きと息遣いだ。