はなこツアー

 校正日和前面の蜘蛛背(せな)の春
 久保山のお寺に住んでいるという黒豚はなこを見に、日曜日、散歩がてら出掛けました。
 いましたいました。世話するおじさんは、しょっちゅう、「はなこ。はなこ。はなこ。はなこ。……」
 どこへ行くの、この毛布の上にちゃんと座っていなさい、ほら、お客さんがお前にリンゴをくださるって、ありがたいね、ちゃんとお礼を言わなきゃダメだよ、そうそう、お利口さんだね、写真を撮ってくださるそうだから黙ってポーズをとらないと、そっち行っちゃダメだって、ほれ、こっちこっち、うん、そうだよ、へへ、ほら、おいらの上に乗ってごらん、芸をみせてあげなよ、まず足でしょ、そっちじゃなくこっちの足から、上手上手、……
 そういう意味を含んだ呼びかけを、おじさんはほとんど「はなこ」だけで、上手に区別して使い分けます。見事なものです。
 それに対して、はなこはというと、ブヒブヒブヒブヒ、ブヒブヒ、ブヒブヒ、ブヒ。ブヒブヒブヒブヒブヒブヒ。よく聞くと、これも、なんともいえない微妙なニュアンスを含んでいて、実に味わい深い。
 愛されると、豚もこんなふうな姿態をみせてくれるのかと感心しました。はなこは、とても角煮にはできません。
 春風や媚びる笑ひを叱りけり

49bed88844fb4-090315_1429~0001.jpg

湯気を切り取る

 ぽかぽかと春日曜の散歩かな
 たとえば、ラーメンから立ちのぼる湯気。それがちゃんと写っているかどうかで、写真の印象はずいぶん違います。
 それがバチッと捉えられていれば、その写真が撮られた時間まで豊かなものだったのだろうと想像が掻き立てられます。
 実際の暮らしの場面では、一瞬たりとも時間が停止することはありません。だから、見ているようで見ていないものがたくさんあります。(それはそれでいいとは思います)
 写真は、停まらない時間を静止画で見せることで、普段見過ごしているものの価値を思い出させてくれます。
 真実は人の数だけ春燦燦

49bd847f4802f-090315_1433~0001.jpg

トモ爺

 垣根越し見上ぐ子らにも梅の花
 夢にトモ爺が現れた! 百歳で亡くなったわたしの祖父です。
 わたしは自分の席にいてパソコンを睨んでいました。ふと視線を入り口のほうに移すと、コピー機の横に立ち、なにやらコピーを取っているようでした。わたしを見て、ニカッと笑いました。ニカッ!!
 わたしは一瞬で、普段どんなに嬉しくても、それほどでもないのに、針が振り切れるほど嬉しくなりました。わたしはトモ爺が大好きです。
 わたしのそばまで来たので、すこし話をしました。あいさつに来た独身の女性社員をつかまえ、あと十五歳若かったらなぁ、と、調子のいいことを言って笑わせていました。
 あの弾けるような喜びを味わったのは、久しぶりです。トモ爺とリヱ婆がいなくなったことで、見るもの聞くもの全ての色調が変ってしまったことを改めて、思い知らされました。
 路地裏の梅がほころんだほころんだ

49b98f0a7718f-090307_1629~0001.jpg

遠藤の青汁

 捨てられし銀杏拾ふ夕餉かな
 朝、桜木町駅前にあるそば屋で青汁を買うようになってから二年ほど経つ。
 出勤前のサラリーマンがコップ一杯の青汁をグイと飲み、改札へ向かう光景をよく眼にする。
 わたしは400ccの青汁を持参のペットボトルに入れてもらい、出社後小1時間してから飲む。
 遠藤の青汁の本社は高知県だから、全国展開の現状を考えれば、各地に工場があるのだろう。
 あるとき、気になって、青汁を売ってくれるおばさんに、「この青汁は、どこで作られているのですか」と質問してみた。するとおばさん間髪入れずに、あなたそんなことも知らないの的な眼差しをわたしに向け、ひとこと「工場で」と答えた。そう言った後も、手を休めず仕事をしながらギロリ、まだわたしのほうを見ている。よほど変な質問をする人だと思ったのだろう。
 そう。青汁は、工場で作られる!
 鼻ひろげ我れは杉の子無花粉症

49b83e07bda43-090311_1152~0001.jpg

気功の「功」

 捨てられし銀杏二百五十粒
 白川静『字統』の「功」の説明のなかに、「宋のころより年間を通じて日々に所業の善悪を記録する風が起り、功過格という。道教では、その成績によって人の禍福や夭寿が定められるという信仰があった」とある。夭寿(ようじゅ)とは、短命と長命のこと。
 気功には道教系のものも流れ込んでいるという。即効性はないけれど、日々の練習が大事であることが、「功」の字の由来からも確認できる。
 こころにも無いこと言うなよアメフラシ

49b6f0a6d3420-090307_1629~0001.jpg

「に」と「へ」

 出物でて行き場失ふ春気功
 新渡戸稲造のことではありません。格助詞の「に」と「へ」。
 授業の神様といわれ、かつて大江健三郎がルポルタージュも書いたことのある群馬県島小学校で校長を務めた斎藤喜博は、「に」と「へ」のちがいを小学校の国語の授業でおこなったことがあった。
 昨日のトップページの文章を読んでいて、そのことを思い出した。
 『大辞林』によれば、「に」は、上代から用いられている語で、動作・作用が行われ、また存在する、時間的・空間的な位置や範囲を示すのが本来の用法、とある。
 一方の「へ」は、「あたり」の意の名詞「へ(辺)」から?動作・作用の向けられる方向を示す。?動作・作用の向けられる対象を示す、などとある。
 意味だけの説明では分かりにくいけれど、例えば、昨日のトップページの、
「昨日スーパーに行ったら、新玉ねぎが売っていました。」を仮に
「昨日スーパーへ行ったら、新玉ねぎが売っていました。」と比べ、
もう一度辞書の説明に戻ると、だんだんその違いがはっきりしてくるようだ。
 山の幸捨てる神あり拾ふ神あり

49b5990ddf8a3-090307_1630~0001.jpg

猫のゴン

 ひかりなのピアノ春風潔し
 土曜の夕刻、ひかりちゃんとりなぴも出演するというピアノ発表会に出掛けました。会場は、歩いて十五分ほどのところ。
 酒に酔いかつて多聞君にもたれるようにして上った急階段を下りていくと、耳をピンと立て、瞑想でもしているような風情のゴンがいました。横に倒したプラスチック製の箱にふわりと。ありがたくなって、手を合わせました。
 ケータイで写真を二枚撮らせていただきましたが、あわてる風なく、むっくりと起き上がり、「それでは」。なので、わたしも「あ、どうも」
 春告げるセブン・イレブンいい気分!

49b44332aaa11-090307_1732~0001.jpg