春バージョン

 

 青山を仰ぎ春日の散歩かな

弊社ホームページのヘッダーの写真
「橋本照嵩のフォトストーリー」が春バージョンに
換わりました。
ひと目見て、ふわーと、春だなーと感じるものもあれば、
じっくり見ても、どうしてこれが春?と、
いぶかしく感じるものもあります。
どの写真がお好みでしょうか。
また、再読み込みのアイコンをクリックすると、
つぎつぎ写真が替わって、
それぞれ独立した写真であるにもかかわらず、
写真家の個性が反映され、
春の物語が醸し出されてくるようです。
どうぞ、お楽しみください。

 元さんを囲み春日の宴かな

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帰省

 

 里山に鶯来り富士見かな

今日(22日)から24日(水)まで帰省します。
このところお世話になっている秋田魁新報社への挨拶を兼ね。
したがいまして、
つぎの日記は25日(木)となります。
よろしくお願いします。

 ゴミ出しの朝晴れ渡るホーホケキョ

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不可逆

 

 嵐去りズボンの下の余寒かな

今年は電子ブック元年だそうで、
いろいろなところでそれに関するコメントを目にします。
出版社の人間としては気になるところです。
「スノッブなインテリは、紙で本を読むようになるだろう。」
などと扇情的な意見を言う輩もいますが、
どうも新しいメディアに乗った仕事で
生計を立てている人のようです。
そんなことを言われたら、
わたしのように旧来の紙の本をつくることで
生計を立てている人間は、頭にきて、
「鈍感なインテリは、電子ブックで本を読むようになるだろう。」
と見栄を張り、喧嘩を売りたくもなります。
いずれにしても、あまり褒められたことではありません。
いまわーわー声高に叫んでいる人々を尻目に、
本も電子ブックも存在しているような気もします。
行く河の流れは絶えずしての言葉どおり、
時の流れを元に戻すことは叶いませんが、
仲のよい近所の子どもが、プレゼントした紙の本を
何度も読み返している姿を見るにつけ、
本が人間にとってどういう意味を持つかを解明するのは、
わたしたちでなく、
生まれたときからディスプレイに囲まれて育った世代かなと
思えてきました。
紙の本があたりまえであった時代の人間の、
新しい時代に関する言葉よりも、
ケータイ電話、ゲーム機、
電子ブックがあたりまえの時代の人間の、
古い時代に関する言葉を聞きたい。
きっとそのほうが説得力に富んでいるでしょう。
それにはもう少し時間がかかりそうです。
なので、春風社としては、
しばらくはこのまま紙の本を作っていくつもりです。

 男根の名のみ勇まし余寒かな

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福袋

 

 ひとり酒友が恋しき春の宵

営業の石橋と大木が大学を訪ねるときは、
大量の春風目録新聞を持って出ます。
わずか四ページの新聞でも、
部数が重なると自ずと重くなり、
大きな紙袋いっぱいに入れたとなると、
それは相当の重さです。
ところで、
石橋が大学回りの準備をしていて
目録新聞を袋に入れています。
ふと見ると、
正月にデパートなんかで販売される福袋に
目録新聞が入っています。
ん!! と、目を瞠りました。
石橋は会社にあった紙袋の一つとして
何気なく使ったのだと思いますが、
なんとも底抜けに可笑しい!
新聞が福袋に入っている。
紅白の色をあしらった大胆なデザイン。しかも、あの字体!
営業で大学の先生を訪ねるときの営業ツールが
福袋に入っている。うん。いい!! 傑作です。
デザイナーの多聞君にさっそく頼もうと思います。
春風社福袋。
なんだかパッと明るくなる。元気がでます。

 近眼が老眼伴ふ春日かな

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心意気

 

 マンホール耳を澄ませば亀の鳴く

ヨコハマ経済新聞に掲載された
春風社の記事を読んでくださり、
朝日新聞の佐藤善一さんから電話があったのが
十日ほど前。
朝日新聞の読者にも、
横浜にこういう出版社があるということを記事にし
ぜひ知らせたいとのありがたい電話で、
それから佐藤さんは、
伊勢佐木町の有隣堂本店に走り
拙著『出版は風まかせ』を買ってくださり、
それをていねいに読んだ上で、来社された。
佐藤さんの本には、付箋が何枚も貼られていた。
インタビューは二時間に及び、
写真も撮ってくださった。
どんな記事になるのかと楽しみにしていたところ、
一昨日、佐藤さんから連絡があり、
きのうの朝日新聞神奈川版に掲載された。
それがコレ
この記事を読ませていただき、驚いたのは、
たしかにインタビューに基づいてはいるが、
わたしの話したとおりの言葉は、一つもないことである。
すべて、自分で話を消化した上で、
後から言葉がつむぎ、そうして出来上がった文章だ。
わたしが話したことだから、それがよく分かる。
新聞は、今となってはむしろ
スローなメディアかもしれないが、
インターネットに代表される速報性のあるメディアとは
異なるメディアであることを、目の当たりにした。
佐藤さんは、インタビューを終えての帰りしな、
「春風倶楽部」創刊号に収録されている安原顯さんの
文章のコピーを希望された。
どこにどういうふうに使うのかなと思っていたのだが、
たった18文字、引用というのでなく、
実に見事に用いている。
わたしは今も、丸刈りに銀縁メガネがトレードマークなのだ。
佐藤さんに、メールと電話で御礼を伝えたところ、
へたくそな文章で…と恐縮しておられた。
十年間の春風社の歴史を短い文章でまとめるのは難しいとも。
その言葉がありがたかった。
新聞記者のこころざしと心意気を感じた。

 黙すれど訪ねてみたし春の山

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指が覚える

 

 パタパタと札裏返し春の風

会社でも家でもパソコンを使っているので、
キーボードに触らぬ日はありません。
自分のことなのに、
不思議だなーと思うことがありまして、
それは、キーボード上の各キーを
わたしが記憶していないことです。
記憶していないのに、こうやって打っています。
チラ見しながら打つのですが、
それも、右手だけで打つのですが、
自分で言うのもなんなんですが、けっこう速い。
モニター画面を見ながら打つと、
指が勝手に動いていくといったような、
そんな具合でもあります。
ですから、たとえば、
キーボードを写し取った紙を机上に置き、
何か文章を打ってみなさいとテストされたら、
まったくできないのではないでしょうか。
このあたりの体の仕組みがどうなっているのか、
とても興味があるところですが、
教えてくれる人もなく、
調べるのも面倒なので、
自分の指先を他人事のように眺めている今日この頃です。

 地震来て地表舞い飛ぶ花粉かな

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芸術の価値

 

 いずこより子ら弾ませて春の風

近所の小学六年生のひかりちゃんが
百人一首のサークルに所属しており、
昨日は、わたしが読み手となり、
ひかりちゃん対その他数名で百人一首の
散らし取りを行いました。
ひかりちゃんは、
上の句を読んだだけでパーンと
払い手で札を取っていきます。見事なものです。
わたしは読みながら、いくつか、
いいなあと思う歌に出くわしました。
ひかりちゃんが興味を持ち、サークルに入らなければ、
百人一首の歌をあらためて味わうことは
なかったかもしれません。
夜、布団に入ってテレビを点けたら、
(このごろ、これが癖になっています)
詩人・評論家の吉本隆明さんが出ており、
芸術の価値についての講演の模様が映し出されていました。
実は、わたしはこれを一度見ています。
吉本さんは、壇上で車椅子に座って話しているのですが、
会場に集まった人に話すというよりは、
ななめ上方に向かい、そこにいる誰かに語りかけるように、
あるいは、
そこにあるものを言葉で写しとるように話します。
吉本さんは、
千年、二千年で人間は変るかといえば、
変らないだろうとおっしゃった。
むしろ、いろいろなものにわずらわされない分、
ストレート(という言葉は使われなかったが)な表現が
可能なのではないか。
沈黙に近い自己表出としての言葉…。
そういうふうに芸術というものをとらえたい。
芸術というのは、本来、無価値なものである。
それが逆に芸術の価値であるとも言える、云々。
たまたま再見した番組であったけれど、
百人一首の歌を声に出して読み、
千年以上も前の人が作った歌を
いいなあと思ったすぐ後でしたから、
吉本さんの言葉が、なるほどと腑に落ちました。
ひかりちゃん、ありがとう。

 御殿山春を被りて午睡かな

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