毎週火曜日の夜は、
テレビのクイズ番組を見ながらの夕食ですが、
きのう、
あることに気が付きました。
新型コロナの影響で、
以前のものを再放送したり、
いま現在のものはオンラインによるものでしたが、
オンラインによるものは、
ライブ感はあるものの、
どうもイマイチおもしろくない。
なんでだろうと、
テレビ画面を見ながらしばらく考えましたが、
解答者同士の横のつながり、
たとえば、
だれかが変な答えを言ったときにちょっと横を向いたり、
プッとふき出したり、
妙なつばぜり合いをしたり、
そういう、
ことばによらないところの関係性が
遮断されているせい、
ではないかということに思い至りました。
感染防止のための飛沫遮断は、
ひととひととの微妙な関係性まで
断ち切ってしまいかねない、
逆にいえば、
テレビのクイズ番組でわたしが見ていたのは、
珍妙な解答のおもしろさ
も然ることながら、
それ以上に、
その場の空気の変容の様
だったのかなぁと。
テレワーク、オンライン授業がふつうのことになっている今、
あらためて、
ひととひとが直に、共に、いることの意味
が問われているようにも感じます。
ひととひととの「直(じか)」の関係
を、
恩師である竹内敏晴は生涯問いつづけました。
弊社から、
竹内敏晴と木田元の『新版 待つしかない、か。 身体と哲学をめぐって』
の対談本を出しています。
初版が2003年、新版が2014年、
すこし時間がたちましたが、
いまを読み解くヒントがいくつもあり、
おススメです。
・猖獗の字を覚えたり春の闇 野衾
新型コロナウイルスの影響による、
Amazon等のインターネット書店の欠品・配送遅延や、
リアル書店の休業・営業時間短縮を受け、
ただいま弊社では、
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ご注文をお待ち申し上げます。
*さて、このブログ、「博論の書籍化について」をしばらく固定にしていた関係から、
何人かの方から「ブログが更新されていない」のご連絡をいただきました。
宣伝を兼ね一定期間ブログページのいちばん上にくるように設定したためで、
わたしは元気にやっております。
ことばを掛けていただいたことで、
はげみになり、またがんばろうという気になりました。
ありがとうございます。
今度は、きょうのこのブログをしばらく固定にします。
なので、お読みくださる方は、
明日以降、上から二番目のブログを見ていただければ幸いです。
よろしくお願いいたします。
・鳴き移り名残の春の烏かな 野衾
和田誠さんの『五・七・五交遊録』を読んでいたら、
カストリ雑誌のことがちょこっとでてきて、
なつかしくなりました。
カストリ雑誌とは、
第二次世界大戦後の数年間に刊行された、
セックス記事や読物を中心とするエンタメ系印刷物で、
雑誌の形のものもあれば、
新聞の形のものもありました。
「カストリ」とは、
酒粕からつくられる「粕取り焼酎」を指し、
三合飲めばつぶれるぐらいの粗悪品のこと。
三「合」に三「号」をかけ、
三号で廃刊するような安直・劣悪な雑誌を
カストリ雑誌と呼びましたが、
戦後のどさくさ感がよく現れています。
なつかしくなったのは、
前に勤めていた出版社で、
膨大なカストリ雑誌のコレクション(コレクターの方から借り受けた)
から、
これはと思われるエログロなものを選び出し、
『カストリ新聞――昭和二十年代の世相と社会』のタイトルで
出版したことがあったからです。
その編集を任されたのでした。
夏の暑い時期に、
古い病院を借り受けた社屋(幽霊を見たという人もいたっけ)
で、
狭い一室に閉じこもり、
戦後まもなく
雨後の筍のように出されたエログロ雑誌から、
わたしのまったくの個人的な趣味嗜好
だけを頼りにセレクトしました。
表紙の絵は新しく友人の画家に依頼しました。
いまも『カストリ新聞』で検索すると、でてきます。
あれ、けっこう売れました。
・春の日の機の一息のひと踊り 野衾
『森田療法の誕生 森田正馬の生涯と業績』の著者・畑野文夫さんと対談した折、
むかしのエピソードとして、
本を読めなくなったことをお話ししてくださいました。
本を読んでいて
ページをめくって読み進めていくうちに、
あれ、
前の行になんて書いてあったっけ?
気にかかり、前の行に戻る、
と、
あれ、
前のページになんて書いてあったっけ?
というふうになっている自分に気づいたのだとか。
その話をうかがいながら、
ああ、
そんなことがわたしにもあったなぁ、
あったあった、
いや、いまもときどきあるなぁという気もしました。
ところで、
そういう感覚とはまた別の感覚が、
このごろ芽生えてきたようにも思います。
ひとことで言えば、
文は歩くときの風景に似ているということ。
たとえば、
わたしは家を出て保土ヶ谷駅まで歩いて電車に乗り、
横浜駅で根岸線に乗り換え桜木町で降り、
紅葉坂を上って会社へ向かいます。
毎日同じコースですから、
どこに何があるかだいたいは分かる。
ところが、
途中の商店街が改装工事をしたりしていると、
あれ? ここってなんの店だっけ?
思い出せない。
でも、
思い出せなくても別に問題はない。
散歩でもそうですが、
歩きながら、
目に触れるものをその都度意識しているわけではない。
目に触れてはいても、
多くのものはスルーしています。
むしろ、
スルーするものがあって、反対に、立ち止まって眺めたり、
空を仰ぐということをしたりします。
本を読むことは、
そういう体験に似ているという気がしてきました。
単語の意味が分からなくて辞書で調べる
ということがあってもいいとは思いますし、
実際にもそうしていますが、
だいたいは一定のスピードで文を目でなぞっていくだけ。
頭で読むのではなく、目で読む。
文意がつかめないのは、
わたしのいまのところの器が文の内容を容れられないからなのだ、
あるいは、
いまの感性のわたしでは文と出合えないのだ、
そう思って、
ある種の諦めを伴いながら読んでいると、
ハッと立ち止まらされる箇所に遭遇したりして、
うれしくなる。
そんなところも、
歩くことに似ている気がします。
・春風や四海浩蕩寒風山 野衾







