文の風景

 

『森田療法の誕生 森田正馬の生涯と業績』の著者・畑野文夫さんと対談した折、
むかしのエピソードとして、
本を読めなくなったことをお話ししてくださいました。
本を読んでいて
ページをめくって読み進めていくうちに、
あれ、
前の行になんて書いてあったっけ?
気にかかり、前の行に戻る、
と、
あれ、
前のページになんて書いてあったっけ?
というふうになっている自分に気づいたのだとか。
その話をうかがいながら、
ああ、
そんなことがわたしにもあったなぁ、
あったあった、
いや、いまもときどきあるなぁという気もしました。
ところで、
そういう感覚とはまた別の感覚が、
このごろ芽生えてきたようにも思います。
ひとことで言えば、
文は歩くときの風景に似ているということ。
たとえば、
わたしは家を出て保土ヶ谷駅まで歩いて電車に乗り、
横浜駅で根岸線に乗り換え桜木町で降り、
紅葉坂を上って会社へ向かいます。
毎日同じコースですから、
どこに何があるかだいたいは分かる。
ところが、
途中の商店街が改装工事をしたりしていると、
あれ? ここってなんの店だっけ?
思い出せない。
でも、
思い出せなくても別に問題はない。
散歩でもそうですが、
歩きながら、
目に触れるものをその都度意識しているわけではない。
目に触れてはいても、
多くのものはスルーしています。
むしろ、
スルーするものがあって、反対に、立ち止まって眺めたり、
空を仰ぐということをしたりします。
本を読むことは、
そういう体験に似ているという気がしてきました。
単語の意味が分からなくて辞書で調べる
ということがあってもいいとは思いますし、
実際にもそうしていますが、
だいたいは一定のスピードで文を目でなぞっていくだけ。
頭で読むのではなく、目で読む。
文意がつかめないのは、
わたしのいまのところの器が文の内容を容れられないからなのだ、
あるいは、
いまの感性のわたしでは文と出合えないのだ、
そう思って、
ある種の諦めを伴いながら読んでいると、
ハッと立ち止まらされる箇所に遭遇したりして、
うれしくなる。
そんなところも、
歩くことに似ている気がします。

 

・春風や四海浩蕩寒風山  野衾