「私淑」について

 

この仕事をしていなければ知らなかったかもしれない、
知っていても、
正確な意味までは調べなかったかもしれない
と思う言葉がいくつかありまして、
そのひとつが「私淑」
広辞苑の説明によれば、
「[孟子(離婁下)](私(ひそか)に淑(よ)しとする意)
直接に教えを受けてはいないが、その人を慕い、その言動を模範として学ぶこと。
直接教えを受けている人に対しては「親炙(しんしゃ)」という。」
直に接しているかどうかの違いが分かれ目のこの言葉、
まちがえて使っているひとが少なくなく、
大学の先生たちの書く原稿にも少なからず見られます。
初校ゲラを精読する際に
それと気づきますから、
まちがえて使っていると思われれば、
鉛筆でそのことを指摘するようにしています。
詩人の田村隆一のものに、
「言葉なんかおぼえるんじゃなかった
言葉のない世界
意味が意味にならない世界に生きてたら
どんなによかったか」
と始まる詩がありますが、
そう感じるときもたしかにあります。
言葉を知ったために
いたく傷つくことがあり、
言葉なんかおぼえるんじゃなかったと不貞腐れる一方で、
意味を知ることを積み重ねることにより、
こころも学も深く、また高く、
視界が広がると感じられることもあり、
そんな日はありがたい。

 

・空山は人語の絶えて朧かな  野衾

 

霊魂歴程

 

世界は「解体して原子に」、無秩序な物質の分子と化し、
その形態も解体して永劫の変転世界となる挙句、
人は現にいまある姿のものではない。
恋し合う者たちの誓いが一向に不易不変でないということだけで
――恋に変らぬ点あるとすれば、
それは恋人たちが変り易いという一点、と詠ったのはダンその人である――
話は足りる。
恋人同士の誓い、
即ちその流動怖るべき肉体が発するものだからである。
(ロザリー・L・コリー[著]/高山宏[訳]『パラドクシア・エピデミカ
ルネサンスにおけるパラドックスの伝統』白水社、2011年、p.451)

 

文化史に関する名著とされているものの翻訳ですが、
この度の新型コロナウイルスのことがなければ、
読むのがもう少し後だった気もします。
日々、こころもカラダも、あたまも変化します。
本文中に紹介されているジョン・ダンの詩はこころに沁みます。
たしかに、
だれも孤島ではなく、
鐘はわたしのためにも鳴っているようです。

 

・包丁のさくりと春の厨かな  野衾

 

西村淳さん

 

料理人として南極観測隊に二度参加し、
2001年に春風社から『面白南極料理人』を上梓した西村淳さんの記事が、
きのうの神奈川新聞に載っていました。
南極料理人とコロナ、
どういうことかと思いましたら、
いつか必ず終わるから、
いまはなるべく家にいて、
ふだんなかなかできなかったことをやるのはいかがと。
南極では、
することのない時間があるときは、
氷上でソフトボールをしたり、
なかには、
聖書や源氏物語を読んだ人もいたのだとか。
こんかいのことを通して見えてきた
日本及び世界の社会、政治、経済の構造を教訓とし、
つぎの選挙に生かすべく、
不安はぬぐい切れないけれど、
じぶんを充実させていくしかないようです。

 

・世心の名残の紅や遠霞  野衾

 

晩白柚

 

ご近所さんから「ばんぺいゆ」をいただきました。
漢字では晩白柚と書くのですね。
超巨大柑橘類。
いただいてからしばらくテーブルの上に置いていたのですが、
朝起きて部屋に入ると、
柑橘類特有の爽やかな香りがして
一気に気分が変ります。
あ!!
これって。
そう。
梶井基次郎のあの有名な小説『檸檬』(れもん)。
得体の知れない「不吉な塊」を抱いた「私」が、
もんもんとしたまま京都の街を歩く。
ところが。
途中で買ったレモン一個で気分が変り、
それを持って丸善の店へ。
と、
だんだんまたあの憂鬱が襲ってきて…。
このあたりの展開なんともリアル。
ふたたび襲ってきた鬱屈した気分を払うべく、
持っていたレモンを爆弾に見立て、
積み上げた画集の上にそっと置いてみる。
気分好転。
「私」は、
檸檬爆弾が丸善を吹っ飛ばすの図を想像しながらそのまま店を出る。
……………
わたしが使っている電子辞書にも入っていて、
いまどきですから、ちゃんと朗読までしてくれます。
コロナ禍に見舞われているきょうこの頃、
レモン一個で気分はどうしようもありませんが、
この超巨大な晩白柚なら…。
この想像を数日楽しんだあと、
爆発させることなくしずかにほどき、
中身を美味しくいただきました。

 

・はるがすみものみなつつむこころかな  野衾

 

春風馥麗蘭

 

空海が編纂した『文鏡秘府論』のなかに、

 

秋露香佳菊  春風馥麗蘭

 

の詩が取り上げられています。

「秋露 佳菊(かきく)を香ぐはしくし

春風 麗蘭(れいらん)を馥(かを)らしむ」

 

具体的な文学論ながら、
論を展開するにあたって取り上げられる詩は、
しろうと目に、わかりやすいものもあり、
これはその一つ。
興膳宏さんの注によれば、
詩題撰者とも未詳とのこと。
それもまたよし。
みじかいものだし、語調もいいので、
春風にちなむ詩として覚えておきたいと思います。

 

・見晴るかす遠山桜歩歩の石  野衾

 

静かな健

 

諸橋さんの本には、
こんな愉快なエピソードも載っています。

 

学生自分に、私はある男と競争したことがあります。
一方の男は柔道の豪傑でありましたし、
私は体も弱かったから何もしなかった。
そこで、
その男がしきりに自慢して、
「おまえのようなヒョロヒョロなのは、なんにもならぬ」
と始終言われたから、
癪にさわって「それじゃひとつ、我慢する競争をしようじゃないか」
「何をするか」
「朝から晩まで本を見ていよう」
「ようし、そんなことで負けるものか」と、
その男はやったんですが、
三時間もやらないうちに彼は閉口してしまった。
私はもうそんなことにかまわないで、五時間ぐらいはやっておった。
つまり、
読書の持続性では私が勝ったのです。
それほど自慢にもならないのですが、とにかく、
ひとつのことをじっと考え、
ひとつのことをじっとやっていくということは、
決して弱い人間のできることではありません。
その健は、
やはり人生には必要だと思うのです。
これは、いわゆる「静かな健」であります。
(諸橋轍次『誠は天の道』麗澤大学出版会、2002年、pp.43-44)

 

・山低く野良廣袤(くわうばう)に種を蒔く  野衾

 

行不由徑

 

行(ゆ)くに徑(こみち)に由(よ)らず
これは、
漢学者・諸橋轍次さんの好きな言葉だそうですが、
このことばに盛られている考え方は、
生き方はもとより、
読書においても貫かれているようです。

 

すべて文献をもととする学問は国文学でも英文学でも同様だと思うが、
まず読む力をつけることが大道を歩むことである。
また同じ読むにしても、
普通に読まなければならぬ本をまず読むことが大切だ。
漢文学にはその普通に読まなければならぬ本が非常に多い。
四書五経をはじめ、
史記でも漢書でも唐詩選でも三体詩でもそれは決して一通りではない。
いたずらに人の知らぬような珍しいもののみをあさって
一時博識の誉を得ることはあっても、
それは決して将来の基礎を確保するゆえんではない。
だからまわり遠くとも踏むべき大道は踏んで歩けと、
これが私の学生に臨(ママ)んだ要求であった。
(諸橋轍次『誠は天の道』麗澤大学出版会、2002年、pp.252-253)

 

・壺焼を口窄(すぼ)ませて啜りけり  野衾