生き物たち

 

きのうの朝、
テレビを点けたら干潟のことをやっていました。
九州・有明海に流れ込む佐賀県田古里川(たごりがわ)河口。
ムツゴロウ、カニ、殻を持たない貝の仲間など、
多くの生きもたちが静かなドラマを繰り広げていました。
生き物たちが登場する番組だと、
ついつい見てしまいます。
と。
高校一年生の時だったでしょうか。
生物の時間に、
「校舎から出て何でもいいから観察して発見したことを記述する」という、
無茶な課題が出たことがありました。
「何でもいい」とはいっても、
生物の授業ですから、
生き物のことなら、という意味です。
無茶と思いつつ外へ出たら、
グラウンドの端のほうで蟻を見つけたので、
それをしばらく追いかけて作文に仕立てたような気がします。
無茶な課題だったけど、
おもしろかった。

 

・万物が興味津々井戸浚  野衾

 

歩いて二、三分

 

三十年ほどまえのことになりますが、
身辺にわかに騒がしくなり、
家に閉じこもり鬱々していた時期がありました。
おカネになりそうな本をつぎつぎ売って、
好きな音楽も聴かずにただぼーっとしていたように記憶しています。
なにも手につかず、
そばにある本を手にとっても
書かれている内容があたまに入ってこない、
そんな時間が過ぎていくなか、
寺山修司の言葉だけはあたまに入る、
というか、
こころに沁みた。
短歌であれ、俳句であれ、エッセイであれ、詩であれ。

 

大工町寺町米町仏町老母買ふ町あらずやつばめよ

 

この韻律、この叙情、
意味よりなにより、言葉がもつオーラに感応し、
言葉の底に沈んでいる言うに言われぬ悲しさに懐かしさを覚えた。
そんなことではなかったかと思います。
遠い記憶が蘇ったのは、
一通の手紙がきっかけでした。
ふるさとの、
わたしより三つ下、
子どものころからよく知っていて、
父親は大工をしており、
家は歩いて二、三分。
小学生の頃は、三つちがいでも遊びましたが、
中学は三年間しかありませんから、
いっしょになることはありませんでした。
彼が高校、大学を出たあと、
高校の先生になっているということを風のうわさに聞きました。
彼の名前をちょくちょく見るようになったのは、
秋田の地方紙の短歌コーナー。
そうか、短歌をやっているのか。
手紙は、
その彼からのものでした。
文中、寺山修司が好きだとありました。
来年三月で定年を迎えるとも。
歩けば二、三分、
いまも家はその距離にありながら、
彼がかつて暮らした家には今はだれもいません。
たまに帰って、
窓を開け放つぐらいのようです。
それぞれの人生を生きて、いろいろあって、
いろいろいろいろ、
思い出したりくやんだりもした。
取り戻すことはできなくても、
抱くことはできます。

 

マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや

 

・太陽が間近くなりぬ井戸浚  野衾

 

がっこうは

 

アリストテレスを読んでいると、
子どものころのことが色々いろいろ思い出されてきます。
アリストテレスは、
リュケイオンという学校をつくり、
そこで万学の礎となる思索と講義を行いましたが、
翻訳をとおして、
その息吹が二十一世紀のいまにまで及んでくるような気がします。
国語、算数、理科、社会、それに、音楽と体育、
ぼくにとってのリュケイオン、
学校てところは、
こういうことを勉強するんだ、
と思いました。
こういうことを勉強すると、
働いて、
おカネをもらえるようにぼくもなるのか。
なんか不思議な気もし。
にしても、
どうしてこんなふうに分かれているのだろう。
だれが決めたんだろう。
「世界」も「自然」も、言葉としてまだ知らないとき、
家と学校の往復の道々、
ぐるりをとりまく山々を見やりながら、
ぼんやりそんなことを考えていたように思います。
田舎の逍遥学派。
きよあき君は友だち。
そのころ出会ったのが伊藤陽子せんせー。
小学一年の時の担任でした。

 

・泥ぬるり素足の指の間から  野衾

 

韻文のこと

 

広辞苑で【韻文】を調べると、
①一定の韻字を句末に用いて声調をととのえた文。
歌・詩・賦の類。
②詩の形式を有する文。
すなわち、単語・文字の配列や音数に一定の規律のあるもの。
詩・短歌・俳句の類。⇔散文。

 

頭韻、脚韻、また、韻を踏むという言い方もありますが、
洋の東西を問わず、
古くなればなるほど、書かれた詩文は韻を踏んでいて、
なんでそうなっているかと不思議でしたが、
文字が書かれ記録される前に音吐朗々、
声を発して朗誦されたものであったと考えれば納得がいく。
韻を踏むことで格段に覚えやすくなるのは、
今ならラップのことばを連想すればいいだろうか。
覚えやすく暗唱しやすい。
文字がない時代のことを考えればなおさらだ。
文字がなくても、
大事なことを忘れずに人に伝えたいとなれば、
忘れないための工夫が要る。
記録のない時代はまた記憶の時代。
韻を踏む韻文は、
あってもなくてもいいものでなく、
歴史的には、
必要不可欠のものとして人間が身につけたものだろう。
自由詩、散文詩、
という言い方もあるけれど、
詩の本源をたずねれば、
どうやらそれは韻文ということになり、
文字が生まれる前、口承文学の壮大な世界が浮かんできそうだ。

 

・紫陽花や刻を湿らすモーツァルト  野衾

 

家のなかの自然

 

ハマっている、というほどではありませんが、
このごろゆっくり頁を繰りながらおもしろく読んでいるのは、
アリストテレスと白川静。
両方とも、はやくは読めませんからね。
きのうは、
『カテゴリー論』の初めの方を読んでいたのですが、
「ウーシアー」の訳語について、
4頁にわたって補注が付されていました。
従来「実体」と訳されてきた「ウーシアー」を、
こんかい新しい日本語訳のアリストテレス全集を上梓するに際して、
「本質存在」と訳すことにつき、
すでに「実体」の訳語が流布し定着していることの安定性に
異を唱える形になっても、
新しい訳語を使うことにする意図を、
ていねいに記述しており、
なるほどと、
語学不得意のわたしにも理解でき、
学術書のおもしろさって、
こんなところにもあるなあと思います。
それと、
アリちゃんや静ちゃんを読んでいると、
紙の本は自然に近いなあとつくづく感じます。
風や空や雲、土や雨や空、森や川や海。
本を読まなかった子どもが、
本を読むようになり、
本を作るようになり、
コロナ禍のなかでホームステイが叫ばれるなか、
本は、
家のなかの自然なんだと。
頁をひらけば、
そこに海も山も生き物たちも変らずにあり、
にぎわいを見せつつ声を発しています。

 

・ふるさとは午後練後の氷菓かな  野衾

 

アリストテレスの射程

 

健康と病気については、たんに医者に属するのではなく、
それらの諸原因を語ることまでは、自然学者にも属している。
そして、彼らがどのように異なり、
どのように異なった領域を研究するのかということが、見逃されてはならない。
それは、
彼らの研究領域が少なくとも或るところまでは隣接しているということを、
事実として生じていることが証しているからだ。
実際、医者たちのうちでも、
洗練されておりしかも努力を惜しまない者たちは、
自然について何ごとかを語っており、かつ、
そこから自然学の諸原理を把握することが当然であると思っているし、
自然についての研究にたずさわる者たちのうえでも、
最も優美なる者たちは、ほとんど、医術の諸原理で終わるからである。
(中畑正志・坂下浩司・木原志乃[訳]
『アリストテレス全集7 魂について 自然学小論集』岩波書店、2014年、p.417)

 

上の文章は、坂下浩司さんの訳。
すぐれた翻訳があるおかげで、
アリストテレスの書物をおもしろく読むことができます。
『自然学小論集』の最後の文を読んだとき、
アリストテレスの志を感じました。
その点で、
たとえばわが国における
『和漢三才図絵』を著した寺島良安、
『自然真営道』を著した安藤昌益とも重なります。
そして、あらためて、
アリストテレスの学問は完結したものでなく、
ひょっとしたら、
万学の祖といわれるアリストテレスの学問を引きつぐ
人間の織りなす学問は、
どこまで行っても完結することはない
のかもしれないと、
そんなことさえ想像されます。

 

・夏を眺め危なげもなし崖の猫  野衾

 

人生の杖として

 

故郷秋田の新聞の文化欄に
「ひだまり」というコーナーがありますが、
声をかけていただき、
九〇〇字ほどの原稿を不定期で書いているものの四回目。
コチラです。
「ひだまり」の周りには、
投稿されたものの中から選ばれた短歌、俳句、川柳、現代詩が
ずらりと並びますから、
そのことを踏まえながら、
ことば全般についてテーマを選んでいます。
さてつぎは、
と。

 

・夏蝶や雲より落ちて崖の上  野衾