薄《すすき》を詠むこころ

 

「薄」は次の二四三番歌のように、その風になびく様を、「人を手招きする」
ことに喩《たと》える形でも詠まれたが、
「本心を表す」という意を掛けて「穂に出《い》づ」という言い方も、
この歌のようによく用いられた。

 

人目守る我かはあやな花薄などか穂に出でて恋ひずしもあらむ      (恋1・549)

花薄ほに出でて恋ひば名を惜しみ下ゆふ紐の結ぼほれつつ        (恋3・653)

花薄我こそ下に思ひしかほに出でて人に結ばれにけり          (恋5・748)

花薄穂に出づることもなき宿は昔忍ぶの草をこそ見れ     (『後撰集』秋中・288)

花薄穂に出づることもなきものをまだき吹きぬる秋の風かな     (同・恋4・840)

 

これらに共通しているのは「穂《ほ》に出《い》づ」が「本意出づ」に掛けられて、
自分の恋の思いを吐露するという意で、
恋の歌として詠まれていることである。
「本意出づ」が「ホンニいづ」
というように連声の形で発音されていたとすればこの掛詞は、
さらにぴったりする。
(片桐洋一『古今和歌集全評釈(上)』講談社学術文庫、2019年、pp.894-5)

 

わたしの住まいする辺りにも薄がけっこう生えており、
風にゆれる花薄の前で立ち止まって、ぼーと眺めることがしばしばですが、
「人を手招きする」ことに喩えられるだけでなく、
じぶんの本心を表すことにも掛けられていたとなれば、
またさらに、
季節の秋がひとの心の「飽き」に掛けられていたということですから、
恋の歌が多くなるのは、
当然かもしれません。
だんだん寒くなり、
恋人に飽きられもする秋となれば、
薄の穂は出でても、
ひとの本意を表すのは躊躇われ、
そのこころで古くから薄が歌に詠まれてきたのでしょう。
あ。
忘れるところでした。
引用した箇所は、
平定文(たいらのさだふん。写本によって、平貞文とも)の、
「今よりは植ゑてだに見じ花薄ほに出づる秋はわびしかりけり」
につづく鑑賞と評論です。

 

・自販機のお茶ガチヤリ落つ寒さかな  野衾