歴史上の「現在」といまの「現在」

 

南伸坊さんの本に、『歴史上の本人』というのがありました。
尊徳さん、聖徳太子さん、信長さん、一葉さんなど、
教科書に出てくる人物の肖像画や銅像にある「本人」の顔にじぶんの顔を似せて作り変え、
各地を旅するという伸坊さんらしい面白エッセイ集。
ただおもしろいだけでなく、
考えさせられました。
というのは、
教科書に名前が出てくるような人というのは、
なんとなく雲の上の存在と申しましょうか、
どこか他人事でありました。
それが、
伸坊さんの本を読んでいると、
尊徳さんも聖徳太子さんも、おなじ人間だったのか
と、
身も蓋もない感想がもたげてきて、
でも、
身も蓋もないその印象が、
漢方薬のようにだんだん利いてきて、
いまいろいろな歴史上の人物の伝記を読むときの補助線になっている気がします。
歴史上の人物を過去の人としてでなく、
現在の人として読んでみる。
とどうなるかというと、
たとえば、
いまとりあえず飯を食うか、腹が減っていても出掛けるか、
仕事をじぶんでやるか、ひとにまかせるか、
鉛筆で書くか、万年筆で書くか、
怒りを爆発させるか、
ぐっと腹に力を入れて我慢するか、
そういう大小の問題がつぎつぎ起こってきて、
そのつど選択に迫られ、
抜き差しならない「現在」に立ち会うことになる、
なってしまいます。
おもしろいけど、
たいへん。
たいへんだけど、おもしろい。
「現在」ということでは、歴史上もいまも同じようです。

 

・子どもの日そろそろ動けハシビロコウ  野衾