少年時代を思い起こしてみるとき、わたしにとって感銘ぶかいことが一つある。
それは、実に多くの人たちが、
それとは知らずに、
わたしになんらかのものを与え、
なんらかの感化をおよぼしたという事実である。
一度もことばをかわしたことのないような人たちが、
いや、
ただ話に聞いただけの人たちまでが、私に確然たる影響をあたえた。
彼らはわたしの生命のなかにはいりこんで、
わたしの内なる力となった。
それ以前のわたしだったら、
これほどはっきり感じたり、これほど断固として行なったりしなかったような、
きわめて多くのことを、
わたしはいわばそれらの人たちの強制下にあるために、
はっきりと感じ、断固として行なうのである。
だからして、
わたしたちはみな精神的には、
自分の生涯の重大な時期において人からあたえられたものによって生きているのだ、
というふうにいつもわたしには思われる。
こうした重大な時期は予告なく、
突如としてやってくる。
それに、
見たところはぎょうぎょうしくなく、
目立たないものである。
それどころか、
ときによると、
思い出してみてはじめてその重要性がわかってくることがあるもので、
それはちょうど、
音楽や風景の美しさが往々思い出してみてはじめてはっきりしてくるのに似ている。
温厚、親切、ひとをゆるす力、誠実、忠実、苦悩への忍従など、
多くの徳がわたしたちのものになったのは、
大きな事件なり小さな事件なりにおいて、
それらの徳をわたしたちに体験させてくれた人たちのおかげなのだ。
生活化した思想が火花のように
わたしたちの内部にとびこんできて、
点火してくれたのである。(生い立ちの記)
(アルベルト・シュヴァイツァー[著]浅井真男[編]『シュヴァイツァーのことば』白水社、
1965年、pp.306-7)
シュヴァイツァーさんは、1875年生まれ。ですから、元号でいえば、明治八年。
アフリカの赤道直下の国ガボンのランバレネで、
医療などの行為を通じて当地の住民のために生涯を捧げた人、
というふうに、
小学校かな、中学校かな、
授業で習ったように記憶しています。
『水と原生林のはざまで』
の一部が、教科書にあって、それを読んだのかもしれません。
ともかく、
ああ、
こういうえらい人が世の中にはいるんだな、
真似できない、
って思いました。
その後、
年をかさね、シュヴァイツァーさんが、
現地の人からはあまりよく思われていなかった、
みたいなことを紹介する本を読み、
少々、
わたしのシュヴァイツァーさん熱が冷めた感じもありましたが、
でも、そういうことが事実あったとしても、
ノーベル賞をもらったとか、
そういうことでなく、
シュヴァイツァーさんは、えらい、
と今も思います。
ちなみに、
引用した本は、
日本語に翻訳されたシュヴァイツァーさんの本の文章から、
浅井真男さんがえらび集めたもので、
引用文は、
国松孝二さんの訳した「生い立ちの記」
からのものです。
・ふるさとの風に早苗のなびくかな 野衾