清さんと聖さんのこころばへ

 

現代仮名遣いだと「こころばえ」。漢字で書くと「心延へ」。
「延ふ」は「這ふ」につうじて、ひとしれず延びていく。
そういうイメージからすると、
こころの根がどちら方面に延びて行くかは、本人も与り知らぬことかもしれず。
のびのび延びていき、
それがいつしか、
その人のこころの本質となっていく。

 

「紙? 少納言はそんなに紙に注文がむつかしいの?」
「いえ、注文も何も、紙なら何でも好きなのでございますが。
気がむしゃくしゃしているときでも、
世の中がいやになって生きてる気もしないときでも、
いい紙の
――たとえば陸奥紙みちのくがみなど、
それから、
ただの紙でも真っ白のきれいなのに、
良い筆などが手に入りますと、
幸福な気分になっていっぺんにご機嫌きげんがなおってしまいます。
『よかったよかった、このままでもうしばらく生きていこう!』
と元気が出るのでございますわ」
「また単純ねえ。紙と筆があれば気が慰められるなんて」
と中宮はお笑いになる。
(田辺聖子『むかし・あけぼの 小説枕草子 上』文春文庫、2016年、p.267)

 

田辺聖子さんの書くものは、どれもすらすら、たのしく読めますので、
しかも、この本は、
小説ということですから、
原文をよく読み、自家薬籠中のものとしたうえで、
田辺さんが、
田辺さんなりに再創造したもの?
と勝手に思いながら、読みすすめていたのですが、
ふと興味がわいて、
原文と照らし合わせてみたところ、
たとえば上で引用した箇所など、
『枕草子』第二百五十九段の現代語訳といってもいいぐらい、
ピッタリ。
すごいですねえ!
あらためて驚きました。
田辺さんは、ほんとうに、古典が好きなんだと思います。
『新源氏物語』もおもしろかったけど、
『むかし・あけぼの』は、
さらにノッて書いているような。
人生観においては、
紫式部さんよりも、清少納言さんに、
田辺さんは近いのかな?

 

・恥づるほど光あふるる五月かな  野衾