帰省してたのしみなのが散歩。年をかさねるにつれ、ますます、そうなっています。
秋田の田舎なので、クルマもひとも、そんなに通りません。
ひとが住まなくなっていると思われる家が、
あちこち、ちらほらあります。
終りは、始まり。
田植えはまだですが、林や森からは、小鳥たちのにぎやかな声が聴こえてきます。
たぬき、青大将はヌッと。
やかましいのが蛙。
道は、昔ながらに、曲がっています。
歩行が曲がりにさしかかるとき、曲がっているとき、曲がり終えてさらに歩くときの、
意識すれば、その時々の気分が変ります。
しずかに歩いているのに、
ゆったりした景色の変化と微妙な気分が同調し、
いつか来た道、記憶の旅へ。
子どものころ、
この道の先は、どうなっているのだろう、どこへつながるのだろうと思った。
でも、歩いて行ってみようとは思わなかった。
なので、道の先は、ずっと、薄ぼんやりしたままで。
いま歩いてみて、
その道のつながり具合がはっきりし、
そうすると、
ちょっとさびしい気もします。
が、
薄ぼんやりの空気に光が射して、
明るく新しい景色を見せてくれます。
薄ぼんやりの景色と明るく新しくなった景色は、
まったく違っているようでもあり、
記憶を挟んでの上下で重なっているようでもあります。
思い出すままに、
家持さん、西行さん、芭蕉さん、
杜甫さん、李白さんも、
ペトロさん、パウロさんだって、
歩いて旅して考え考え、ことばをつむいでいきました。
あるくことのほうが先なのか、
と思えてきます。
・新緑や流離の汽笛ここにまで 野衾