神秘を受け入れる

 

一般に、人間と人間との関係のなかには、わたしたちが通常みとめているよりも、
はるかに多くの神秘がひそんでいるのではないだろうか?
何年もまえから毎日いっしょにくらしている相手であっても、
ほんとうにその人を自分が知っているとは、
わたしたちのだれも主張するわけにはいかない。
わたしたちはどんなに親密な人たちにも、
自分の内的体験をつくりあげているものの断片しか伝えることができない
のである。
全体を示すというようなことはできないことだし、
できたとしても、
相手がそれをとらえることはできないだろう。
わたしたちは、
互いに相手の顔形をはっきり見わけることのできない薄暗がりのなかを、
いっしょに歩いているのだ。
ただ、
ときおり、
わたしたちが道づれとなにかを経験したり、
互いにことばをかわしたりすることによって、
一瞬のあいだ、
稲妻に照らし出されたように、
わたしたちのそばにその道づれのいることがわかる。
そうしてそのときわたしたちは、
相手の様子を見てとる。
が、
それからまた、おそらく長いあいだ、
暗がりのなかを、
ならびあって歩いて行く。
そして相手の顔形を思いうかべようとしても、
それができない。(生い立ちの記)
(アルベルト・シュヴァイツァー[著]浅井真男[編]『シュヴァイツァーのことば』白水社、
1965年、pp.307-8)

 

シュヴァイツァーさん、こんなことを考え、書いているんですね。
神秘を重んじる新井奥邃(あらい おうすい)さん
とおんなじだなと思いました。
どんな人に対しても、
それがじぶんの子であっても、
また親であっても、
愛し敬して、昵近しないということは、
言うは易く行うは難し、
のたぐいかもしれません。
なかなかできることではありませんけれど、
おぼえていて、
ときどき思いだしたいことばです。

 

・身を伸ばし石くれのうへ青大将  野衾