奥邃さんはこんな人 2

 

村井先生のとぎれとぎれの発音が入り交じる沈黙より長くとだえ、
女学生たちも暇乞いとまごいをする時になったのを知ったほとんど直前、
ふいに村井先生が語りだした言葉は、
三人の誰にもまして加根を驚かせた。
――むしろ、
そんな表現では追いつけず、
時に思わず叫ぶ郷里くに言葉の、「魂たまがった」なる驚愕きょうがく
ほかならなかった。
では、
なにが語られたのか。
まず、学ぶことの尊さがいわれた。
同時にどこで、どんなかたちで、誰について学ぶかが重大な問題だ。
その意味から、あなた方は仕合せだ。
この言葉につづいたのは、
なんと日本女学院に対する批判であった。
「あすこに集まっている方々は、皆さんがただ人びとではない。
申さば、
一人一人が竜りゅうであり、麒麟きりんであり、鳳凰ほうおうであります」
それを師として学ぶ彼女らは幸福だ。
しかし村井先生の言葉は、
それにはとどまらなかった。
「ただ遺憾ながら、竜や、麒麟や、鳳凰には、馬車は曳けない」
(野上弥生子『森』新潮文庫、1996年、pp.368-9)

 

この「竜や麒麟や鳳凰には、馬車は曳けない」ということば、
なんども噛みしめたくなります。
味わいの深いことばであると思います。
新約聖書にあるイエス・キリストのことばがひびきます。

 

こうして彼らの足を洗ってから、上着をつけ、ふたたび席にもどって、
彼らに言われた、
「わたしがあなたがたにしたことがわかるか。
あなたがたはわたしを教師、また主と呼んでいる。そう言うのは正しい。
わたしはそのとおりである。
しかし、
主であり、また教師であるわたしが、
あなたがたの足を洗ったからには、
あなたがたもまた、
互に足を洗い合うべきである。
わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、
わたしは手本を示したのだ。
(「ヨハネによる福音書」13:12-14)

 

新井奥邃(あらい おうすい)さんが聖書を「仕事師の手帳」とよぶ意味が、
聖書のこういう箇所にあらわれていると感じます。
きわめて実践的。

 

・ながむれば憂さを忘るる五月かな  野衾