全作つ、にふき出す

 

日に日に老人になってまいりまして、
あれこれと、いろいろ考えることがあるわけですが、
すこし落ち着いた老人になろうと思い立った、わけではないけれど、
老老つながりで、
『老子』をぽつぽつ読んでいましたら、
こんな箇所に出くわして、
思わずふき出してしまいました。

 

徳を含むことの厚き者は 赤子せきしに比くらぶ。
蜂蠆虺蛇ほうたいきだも螫さず、猛獣も拠おさえず、
攫鳥かくちょうも搏たず。
骨弱く筋きんやわらかくして握にぎること固し。
いまだ牝牡ひんぼの合ごうを知らずして而しかも全ぜんつは、
精の至いたりなり。
終日号いて而も嗄れざるは、和の至りなり。

 

全作つ。ぜんたつ。蜂屋邦夫さんの訳では、こうなります。

 

豊かに徳をそなえている人は、赤ん坊にたとえられる。
赤ん坊は、蜂やさそり、まむし、蛇も刺したり咬んだりせず、
猛獣も襲いかからず、猛禽もつかみかからない。
骨は弱く筋は柔らかいのに、しっかりと拳こぶしを握っている。
男女の交わりを知らないのに、性器が立っているのは、
精気が充足しているからである。
一日中泣きさけんでも声がかれないのは、和気が充足しているからである。

 

なんだかナンセンス漫画の図が脳裏をかすめるわけですが、
なんたって老子ですからね。
老子を勧める人って、
世俗のことにあまりかかわらず、
春風駘蕩の風情を醸しだしている、
そういうイメージがありますが、
たしかにイメージ通りの文言もあるにはあるけれど、
わたしとしては、
引用したこういうところこそ、若いときに教えて欲しかったと思う、
きょうこの頃ではあります。

 

・尻端折りして家々へ夕立かな  野衾

 

セロニアス・モンク

 

このごろ毎日聴いているのが、セロニアス・モンクのThelonious himself。
きっかけは、
ふと。
そう言うしかありません。
二週間ほど前でしたか、CDの棚を眺めていて、
そうだ、近ごろ、セロニアス・モンクを聴いていなかったな、
と独り言ち、
棚から取り出したのが、
Thelonious himself。
モンクのジャズは、昔から、好みが分かれているようですが、
わたしの場合、これまでのところ、
好きでも嫌いでもなく、
へ~、こういうジャズもあるんですか、
みたいな。
それなのに、どうしたわけか、ヘビーローテーションで聴くようになるというのは、
じぶんのことではあるけれど、
不思議です。
どんな感じに聴こえるかといえば、
ひとことで言って、
小さな子供がひとり無心に遊んでいるような、
そんなイメージ。
ふと、ピアノの鍵盤に指を落としたら、きらきら音が光り始め、驚き、
光る音と戯れているうちに、
つい夢中になり、
かと思えば、
ふと、
訳もなく寂しくなって、
見えていた空の色まで俄かにかき曇り、
どこか行こうかな、でも、どこへ?
どこへでも。
このアルバムには「ふと」した現在、仏教でいうところの「而今」が詰まっているようです。
CDの宣伝文句に「闇」とありますが、
闇を感じることはありません。

 

・遠雷を合図に飛び立つ雀たち  野衾

 

『武士道』の精神

 

吾人は聖徒、敬虔なるキリスト者、かつ深遠なる学者〔たるジョエット〕
の述べし次の言葉を牢記ろうきするを要する。
「人は世界を異教徒とキリスト教徒とに分ち、
しかして前者に幾何いくばくの善が隠されているか、
または後者に幾何の悪が混じているか
を考察しない。
彼らは自己の最善なる部分をば隣人の最悪なる部分と比較し、
キリスト教の理想をギリシヤもしくは東洋の腐敗と比較する。
彼らは公平を求めず、
かえって自己の宗教の美点として言われうるすべてのことと、
他の形式の宗教を貶けなすがために言われうるすべてのこととを集めて
もって満足している」。
(新渡戸稲造[著]矢内原忠雄[訳]『武士道』ワイド版岩波文庫、1991年、p.157)

 

食わずぎらいのようにして、これまで読んでこなかった新渡戸稲造の『武士道』を
こんかい初めて読んでみて、
いろいろと考えさせられ、おもしろく読み終えました。
引用した箇所にあるジョエットとは、
19世紀から20世紀にかけて活躍した、
イギリスを代表するプロテスタントの説教者。
「自己の最善なる部分をば隣人の最悪なる部分と比較し」
ているかぎり、
ふかい意味のある対話を実現する
ことは叶いません。
これが新渡戸の精神であったのかと納得しました。
世の中がどんなに変っても、
肝に銘じておきたい発言であります。
ちなみに、
2017年に亡くなった医師の日野原重明さんの父・日野原善輔さんは
キリスト教の牧師でしたが、
ジョエットの『日々の祈り』を愛読してやまず、
ご自身で翻訳もされています。

 

・一番手ごみ出しの日の青葉風  野衾

 

写字生のこと

 

印刷術が歴史に登場する前の本といえば写本になるわけですが、
書物の文字を一字一字書き写す写字生とよばれた、
ほとんど無名の人々が多くいました。
ヨーロッパでは、
その任を奴隷が果たしていたこともあったようです。
写字生について書かれた本を読むと、
その苦労の一端がしみじみ、ひしひしと感じられ、
オレって、
ひょっとしたら写字生の生れ変りか?
などと、ふと思うことがあり、
「編集者写字生説」を唱えたくなるきょうこのごろであります。

 

文教の大中心地の一つで造られた写本は多分組織的に訂正されたであろうが、
われわれがその実物見本を有する唯一のものたる、
更に個人的な製品の場合には決してそうではなかった。
時には書き違えた語は直ぐその上に書き直され、書き落した語は余白に加えられている。
消したい語は常に一つ一つの字の上の点によって示されている。
恐らくそれだけで一番多い誤りの原因となったのは、
単なる筆の誤りは別として、
行の終り或は初めが同じだったり、
写字者の眼が偶然に迷ったりした(ここ笑える――三浦)ために、
一行(或は一行以上)抜かすことである。
このような脱落に気づいた場合に、
普通の訂正法は一寸碇に似た印(→)を脱落箇所に面してつけ、
抜けた一行または数行を巻物の天または地の余白に同じ印を附して挿入することである。
とはいえ、
現存のパピルス中にこの例が沢山にあるとは言えない。
立派に書かれた写本では、
正確度は、無瑕ではないけれども、高いが、
個人的に造られた写しや低級な売品に属するものでは誤りが多いことがあり得る
というのが一般的帰結である。
(F.G.ケニオン[著]高津春繁[訳]『古代の書物』岩波新書、1953年、p.78)

 

この本に書いてあることではありませんが、
写字生は、
書物を写し終えた後、最後の遊び紙に短く感想を書く場合もあったのだとか。
「たいくつ!」「つまらん!」等々。
費やした時間と、
物質的にか精神的にかは措いておくとして、
得られたものとを比較したとき、
「たいくつ!」「つまらん!」
と書きたくなった写字生の気持ちが痛いほど
伝わってきます。
たとえばそれがトマス・アクィナスの『神学大全』だったりしたならば、
ひとしきり笑った後、
おもしろうてやがて悲しき写本かな、
であります。

 

・信号を待つ間降りくる蟬の声  野衾

 

めるるおやじ

 

昨日、休日出勤を終えての帰り、桜木町駅ビル一階にある回転寿司店に入りました。
四皿、五皿ほど食べたころ、
角の席を一つ残してわたしとアクリル板越し直角に、
おそらく、母と娘、それと父、三人連れの家族が座りました。
両親の年齢は、
わたしと同じか、
ひょっとしたら、
わたしより少し上だったかも知れません。
母と娘はよく会話をし、
その間、
父はといえば、
回転している寿司を見ることなく、無言で、
カウンターに置かれたメニューを睨んでおりました。
と、
「カツオのニンニク醤油づけ!」
と、
初めて、割と大きめの声を発しました。
「それ、美味しいの?」
と、
母の方に体を向けていた娘が、思い出したように父の側へ体を向き変え、
初めて父にことばを発した。
「仙台地方では、ふつうこうやって食べるのさ」
と父。
そうだったかなぁ、
と、
わたしの心の声が発する。
ほどなく、
艶やかに光るニンニク醤油漬けのカツオ皿が父のもとへ。
一瞬父の目が輝いた、
と、
わたしには見えた。
間髪入れずに父は一貫目を口中へ。
すると、あ~らら。
頑固一徹そうに見えた、どちらかといえば、渋めの男性、
両肘を折り曲げ、それを体にギュッと引き寄せて「うんまい! 絶品!」
そのしぐさを見ていて、
あれ、え~と、
どこかで見たことがあるゾ、
と、思った。
あ!
思い出した!!
オリヒロのテレビCM「ぷるんと蒟蒻ゼリー」に登場するめるるが演るしぐさにそっくり!!
へ~~!!
ちょっと感動した。
やはりなぁ。
事程左様に、人は見かけで判断してはいけない、
のでありました。

 

・読みとかむ黙す守宮の古代文字  野衾