白川静さんの『孔子伝』のなかに、「卷懐《けんかい》」という言葉が何度かでてきます。
「才能をあらわさない」という意味で、
これは、
『論語』「衛霊公」にでている文にもとづいています。
君子なる哉《かな》、蘧伯玉《きょはくぎょく》、邦、道有るときは則ち仕へ、
邦、道無きときは、則ち卷きて之れを懐《をさ》むべし。
「懐」の字を白川さんは、「をさ」と読んでいますが、
諸橋轍次さんは、「ふところ」と読んでいます。
意味は同じ。
ここについて諸橋さんはつぎのように説明しています。
「卷いて之を懐にす可しとは、
布帛などが、これを巻けば、簡単に懐中することの出来得るように、
何の雑作もなく隠退韜晦して世の人に知られずにおる姿をたとえたものである。」
(諸橋轍次『論語の講義(新装版)』大修館書店、1989年、p.359)
孔子がある時期を境にして、
蘧伯玉の例にならった生き方に転換していく様が、
『孔子伝』で印象深く描かれていますが、
『聖書』に、
蘧伯玉をほうふつとさせるエピソードが記されています。
どの町、どの村にはいっても、その中でだれがふさわしい人か、たずね出して、
立ち去るまではその人のところにとどまっておれ。
その家にはいったなら、
平安を祈ってあげなさい。
もし平安を受けるにふさわしい家であれば、
あなたがたの祈る平安はその家に来るであろう。
もしふさわしくなければ、その平安はあなたがたに帰って来るであろう。
もしあなたがたを迎えもせず、
またあなたがたの言葉を聞きもしない人があれば、
その家や町を立ち去る時に、足のちりを払い落しなさい。
(「マタイによる福音書」第10章11-14節)
白川さんは、日本が戦争に敗れたあと、
『論語』と『聖書』を同時に読んでいたとのことですから、
たとえば、
こういう箇所を重ねながらの読書であったか
と想像します。
・青梅のひかり帯びたる和毛かな 野衾