時を超え

 

ソクラテスは、あらゆる種類の人たちのあいだを歩き廻っていたとき、
疑いもなくその反語的物の言い方によって、
あちこちで殴られたり、蹴とばされたり、
髪の毛をむしられたりというお返しをもらう目にあったであろう。
だが彼はこのような仕打ちを依然として諧謔を弄しつつ受けたということである。
しかしながら、
大部分の人たちは彼らなりにソクラテスを嘲笑し、
軽蔑していたのである。
他人のいる所で辱《はずか》しめられることは、いつでも、
またどんな場合であっても特別につらいことと見なされていた。
ピュタゴラスは、
人々のいる前で彼の弟子の一人をいくらか厳しく面責したところ、
その男は首をくくって死んでしまったということがあって以来、
二度と他人の前では激励の言葉さえ言うことはなかった。
これに反してソクラテスはこの点に、
物にこだわらぬ彼の快活な態度を裁判官たちの前でもみせている。
「なぜあのようにたくさんの人が以前からいつも私の周囲にいようとしたのでしょうか?
それは彼らは、
自分では賢いとうぬぼれているが、
実はそうでない人たちが、
私から聞きただされるのを聞いていたいからにほかなりません。
それはずいぶん面白いことですからね。」
無論、
その生贄になっている当人にだけは楽しいことではなかった
のは言うまでもない。
(ヤーコプ・ブルクハルト[著]新井靖一[訳]『ギリシア文化史 第二巻』
筑摩書房、1992年、pp.484-5)

 

ペロポネソス戦争でスパルタに敗れたアテナイの状況と人心に関するブルクハルトの記述
を第一巻ですでに読んでいましたので、
『ソクラテスの弁明』における上の有名な記述が、
これまでとはちがって、
切実に迫って来るものがあります。
伊藤博の『萬葉集釋注』を読んでいたとき、
ふと、
一二〇〇年以上の時を超え、
目の前の文をとおして、
詠われている当時の情景、風景、光の具合、
山道の、露で湿った草のひんやりとした冷たさまで感じられるような、
そんな瞬間が幾度かありましたけれど、
ブルクハルトの本を読んでいると、
同じような感覚に襲われることが間々あります。
これも、
すぐれた学術書の魅力であると思います。

 

・目覚めては夏のとろりの光かな  野衾