肉と言葉

 

言葉は肉とならねばなりません。しかし、肉もまた言葉とならねばなりません。
私たち人間にとっては、
ただ生きるだけでは十分とは言えません。
同時に
私たちはどのように生きているかを言葉にしなければなりません。
どのように生きているかを語らないなら、
私たちの人生は活力と創造性を失ってしまいます。
美しい景色を見たら、
見ているものを表そうと言葉を探します。
心やさしい人に出会ったら、
その出会いについて語りたくなります。
悲しみや大きな苦しみに遭うと、その悲しみや苦しみについて語る必要を感じます。
喜びで驚いた時には、
その喜びを告げ知らせたいと思うのではないでしょうか。
言葉を通して、
私たちはどのように生きているかを自分のものとし、
内面化します。
言葉は、
私たちの経験を真に人間的なものとしてくれます。
(ヘンリ・J・M・ナウエン[著]嶋本操[監修]河田正雄[訳]
『改訂版 今日のパン、明日の糧』聖公会出版、2015年、p.222)

 

さびしいことを、秋田の方言で「とじぇね」といい、
「わだしは、とじぇねわらしでありました」と講演で語り、不意に涙が出てきたことを、
その後、話したり、書いたりしていますが、
「とじぇねわらし」だった少年が、
右往左往しながらも、
これまでやってこられたのは、
言葉があったおかげ、
という言い方が成り立つかもしれません。
ほんとうに苦しいとき、
悲しいときは、
とても言葉にできないとも思われましたけれど、
じっと我慢していると、
苦しみや悲しみの底から、
涙がま~るく形を成すように、
ぽつりぽつりと言葉の切れ端が浮かんでくるようでありました。

 

・万緑や境内への細き階段  野衾