神奈川県立図書館新棟

 

弊社が入っている横浜市教育会館の、道を挟んだすぐ向かいに建設中の建物が、
いよいよその全貌を現し始めました。
ここはかつて神奈川県立紅葉が丘高等職業訓練校があった場所です。
平成20年3月に廃校になったようで、
その後しばらく放置されていましたが、
取り壊し作業ののち、
更地となった広い土地には、草が伸び、花が咲き。
それを会社のベランダから眺め、
ずっとこのままの景色だったらいいのに、
などと、
手前勝手なことを思っていました。
工事が始まったのは、
去年、
いや、一昨年だったでしょうか。
工事の立て看板を見たら、
「神奈川県立図書館新棟」の記載があり、
へ~、そうなんだ、
と、
ちょっとびっくり。
たしかになぁ、
前川國男が手掛けた本館、貴重な資料を誇る新館との謳い文句も、
利用者がそれほど多くないということであれば、
宝の持ちぐされのようなもので、
なんだかもったいないなぁ、
とは思っていました。
そうか。
新棟か。
どうやら、
横浜市中央図書館に匹敵するような、
ひょっとしたら、それを上回る人の出入りを期待するような、
光あふれる、光に満ちた、そんな図書館が出来上がるのかもしれません。
今年9月オープンのようです。
楽しみ!!

 

・リュック揺れ目元華やぐ春隣  野衾

 

仕事に徹する

 

日曜日朝6時35分からの「NHK俳句」を欠かさず見るようにしています。
先週は、岸本葉子さんが司会進行役の回でしたが、
番組冒頭、
岸本さんが体調不良のため、大事をとり休みになったので、
代わって中川緑が司会を務めます
とのことでした。
中川さんは、NHKのアナウンサー。
岸本さんは、
「第二週は俳句が大好きな岸本葉子が務めます」
と、
いつも笑顔を絶やさず、ゆっくりていねいに流していきますから、
好感をもって見ていますが、
中川さんの司会は、
岸本さんとは別の意味で、
プロのアナウンサーというか、司会進行役の仕事のキモとでも言ったらいいか、
それをまざまざと見せられました。
講師は阪西敦子さん。
ゲストはイッセー尾形さん。
中川さん、
アナウンサーですから滑舌がいいのはあたりまえですが、
25分間ある番組の時間を一度も気にする風がありませんでした。
イッセー尾形さんが、
松尾芭蕉をモチーフにして描いた絵を見せながら、
割と自由にしゃべる場面もありましたが、
そういうときはゲストにたっぷり話してもらい、
じっくり耳を傾けつつ、
それでいて、
時間が押しているのか、
いないのか、
そんなことは露ほども見ているこちらに感じさせず、
また、
講師の阪西さんを立てて話を促し、
まぁ、見事というしかない仕事ぶりでありました。
おそらく、
タイムスケジュールが体内時計のように、
頭の中にきちんと入っているからこそできる所作でありましょう。
俳句の勉強もさることながら、
じぶんの仕事に徹することの意味を
改めて考えさせられました。

下の写真は、
打ち合わせのため来社されたカンナ社の石橋さんからいただいたお花。
ほんのりいい香りがしています。

 

・小走りのマスクの娘春隣  野衾

 

美の壺

 

NHK・BSの「美の壺」をときどき見ます。
テレビのリモコンをカチャカチャやって、面白そうだなと思えばそれを見る
という見方が多いので、
「美の壺」も、
初めから最後まで見たものはありません。
再放送だったと思いますけれど、
先日見た「レコード」の回がそうでした。
これの場合は、途中から最後まで。最初から見たかった。
とくに番組最後の方で登場したグラフィックデザイナーの菅谷晋一さんの
レコードジャケットの制作が、
本の装丁を連想させて、
面白かった。
菅谷さん曰く、まずすることは、
依頼された仕事のレコードをじっくり聴くこと。
聴いて浮かんできたイメージを描き、形にしていく。
ことばは正確でありませんが、
そういう趣旨のことを話されていました。
つくったアルバムジャケットのひとつが、ザ・クロマニヨンズのものだったので、
へ~!! 知らなかった。
菅谷晋一さん、
憶えておこうと思います。

 

・目覚めての山のあいさつ蕗の薹  野衾

 

日々の旅

 

イエスは、十二人を呼び寄せ、二人ずつ遣わすことにされた。
その際、汚れた霊を追い出す権能を授け、

次のように命じられた。
旅には杖一本のほか何も持たず、
パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、
ただ履物は履くように、
そして「下着は二枚着てはならない」と。
また、こう言われた。
「どこでも、ある家に入ったら、その土地から出て行くまでは、
そこにとどまりなさい。
あなたがたを受け入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があれば、
そこを出て行くとき、
彼らへの抗議のしるしに足の塵を払い落としなさい。」
(『新約聖書』マルコによる福音書、第6章7-11節)

 

たとえばこういう箇所を、十代の終りに初めて読んだとき、
どんなふうに読んだだろうかと思い返します。
記憶力もいまよりずっと冴えていて、
これぐらいの分量なら、
暗記しようとすれば暗記できたかもしれません。
しかし、暗記して、それが何かの試験に出されて答案を埋められたとしても、
それが如何ほどのものか。
病気をし、ある程度の年齢を重ねたいま、
改めてこの箇所に触れると、
若い時とはまた別の味わいを感じます。
「杖一本のほか何も持たず」
とはなんと厳しい諭しでしょうか。
あれもこれも持たなくては、
とても困難に立ち向かえるものではないと思いがちです。
また、いっしょうけんめい伝えようとしても、
伝わらないことはしょっちゅうで。
「足の塵を払い落としなさい。」
は、
口答えするなということでもあるでしょう。
新井奥邃が聖書を「仕事師の手帳」と称した意味を、
日々の暮らしのなかで実感し味わうことも日用常行の勉強です。

 

・ふるさとは光を放つ蕗の薹  野衾

 

矢内原忠雄の西田理解

 

例えば日本で流行している西田哲学があるでしょう。
西田哲学の説明書が出てきておるくらいです。
一時マルクス主義が流行したそのあとをうけて、今西田哲学が流行しておる。
西田哲学を読んだ人は、
西田さんはキリスト者かと思う。
キリスト教の哲学者であるかと人が思うくらい似ている点がある。
キリスト者の中でもたいへん喜んで、
西田博士はキリスト教の哲学を述べていると喜んで言う人もある。
けれども落着いて読んでみると、
西田博士はポルフリーである。
キリスト教に似たことを言っているし、
近いことも言っている。
しかしキリスト教と西田博士の間に非常な距離がある。
何であるかというとキリストの受肉を信じないからということにつきるのです。
(矢内原忠雄『土曜学校講義 第二巻』みすず書房、1971年、p.234)

 

西田幾多郎の本を多く読んでいるわけではありませんが、
仕事がらもあり、
とくに小野寺功先生の本を編集する上で、
西田の本を読まないわけにはいきませんから、
必要に応じて近くの神奈川県立図書館まで歩いていっては全集を手に取りました。
キリスト教との関係でいえば、
矢内原の意見にわたしは与する者です。
聖書を読むと、
旧約新約にかぎらず、
いろいろな奇跡エピソードが紹介されているわけですけれど、
いちばんの奇跡は、
何といっても、
イエス・キリストがこの世に生まれたことではないでしょうか。
若い頃、
わたしは何度かインドを訪れ、
じぶんの足で歩きながら、
ここをブッダが歩かれたのかと、むか~しむかしに思いを馳せたものです。
その想像は、
かの地を実際に歩いてみると、
そんなに突拍子もないものではなく、
そうだったんだなぁと了解できる気がしました。
それで仏教が分かったということではもちろんありません。
イエス・キリストについてはどうか。
わたしはヨーロッパを訪れたことはありませんので、
なんとも言えませんが、
仮に訪れたとして、
インドを旅してブッダを想像したように想像しても、
身体的に何かが変るとは思えません。
ブッダと人間は地つづきでも、
イエス・キリストと人間との間には決定的な断層がある気がするからです。

 

・川流る山のふもとの蕗の薹  野衾

 

ビールのコマーシャル

 

きのうにつづきテレビのコマーシャルについて。
きょうはビール。
元気よく、
爽やかにグラスを傾け、
ググっと。
一瞬の間があり、
そして
「うまい!」
ってなるわけだけど、
みなさん頑張って「うまい!」を表現しようとするらしく、
それぞれの「うまい!」があっておもしろい。
「うまい!」の競演。
桐谷健太の「うまい!」には驚きました。
口、でっか! どんだけ開くの?
元気溌剌!
米倉涼子のも桐谷健太ふうのガンバル系「うまい!」
眼を閉じて「うまい!」
って言うけど、
ん~、
あんまり美味そうじゃないなぁ。
タモリの「うまい!」は美味しそう。
ビールが好きなのかな。
ほどよく力が抜けていい感じ。
このごろ美味しそうに見えるのは、二階堂ふみの「おいしいなぁ」
これも力が抜けている。
むかし『広告批評』という雑誌がありました。
テレビのコマーシャルなどを勝手に批評する月刊誌で、
本屋で立ち読みするぐらい
でしたが、
共感をもって読むことのできる楽しい雑誌でした。
『広告批評』の天野祐吉なら、
いまのビールのコマーシャルをどんなふうに見るのかなとも思いますが、
2013年に惜しくも亡くなりました。

 

・立春や鉛筆二本削りをり  野衾

 

テレビCMの広瀬すず

 

三井不動産のテレビコマーシャルで、広瀬すずがでてくると、
いつも気になることがありまして。
公園の地面に、
その辺で拾ったと思われる棒切れでラインを引き、
両手をはたいた後、
クラウチングスタートの姿勢をとるや、
「ようし」
と言って駆けだす。
と、
二歩目でほんの少し前のめりになる、ものの、体勢を立て直し、そのまま走っていく。
コマーシャル動画はさらに続いていきますが、
わたしはこのコマーシャルを見るたびに、
どうでもいいことながら、
あの前のめりのシーンが気になって気になって、
夜も眠れない、
ほどではないけれど、
気にはなります。
なぜなら、
あの前のめりの動きが演技だとはとても思えないからです。
いかにも自然。
わたしの想像では、
制作者側の前もっての意図ではなく、
たまたま広瀬すずが走りはじめた二歩目で若干つまずくような動きをし、
だれもかれも一瞬ハッとしたものの、
動画の演出をした監督がそれを見、
「お。いいじゃん!」
と言ったかどうかはさて措き、
ともかくそれを良として採用したのではないかということ。
もしも、
予定していた動きだとすれば、
それはそれでなんとも素晴らしい演技なわけですが、
でもなぁ、
あり得ないと思うんだなぁ。
広瀬すずに本当のところを訊いてみたい。

 

・立春や手に読みかけの文庫本  野衾