矢内原忠雄の西田理解

 

例えば日本で流行している西田哲学があるでしょう。
西田哲学の説明書が出てきておるくらいです。
一時マルクス主義が流行したそのあとをうけて、今西田哲学が流行しておる。
西田哲学を読んだ人は、
西田さんはキリスト者かと思う。
キリスト教の哲学者であるかと人が思うくらい似ている点がある。
キリスト者の中でもたいへん喜んで、
西田博士はキリスト教の哲学を述べていると喜んで言う人もある。
けれども落着いて読んでみると、
西田博士はポルフリーである。
キリスト教に似たことを言っているし、
近いことも言っている。
しかしキリスト教と西田博士の間に非常な距離がある。
何であるかというとキリストの受肉を信じないからということにつきるのです。
(矢内原忠雄『土曜学校講義 第二巻』みすず書房、1971年、p.234)

 

西田幾多郎の本を多く読んでいるわけではありませんが、
仕事がらもあり、
とくに小野寺功先生の本を編集する上で、
西田の本を読まないわけにはいきませんから、
必要に応じて近くの神奈川県立図書館まで歩いていっては全集を手に取りました。
キリスト教との関係でいえば、
矢内原の意見にわたしは与する者です。
聖書を読むと、
旧約新約にかぎらず、
いろいろな奇跡エピソードが紹介されているわけですけれど、
いちばんの奇跡は、
何といっても、
イエス・キリストがこの世に生まれたことではないでしょうか。
若い頃、
わたしは何度かインドを訪れ、
じぶんの足で歩きながら、
ここをブッダが歩かれたのかと、むか~しむかしに思いを馳せたものです。
その想像は、
かの地を実際に歩いてみると、
そんなに突拍子もないものではなく、
そうだったんだなぁと了解できる気がしました。
それで仏教が分かったということではもちろんありません。
イエス・キリストについてはどうか。
わたしはヨーロッパを訪れたことはありませんので、
なんとも言えませんが、
仮に訪れたとして、
インドを旅してブッダを想像したように想像しても、
身体的に何かが変るとは思えません。
ブッダと人間は地つづきでも、
イエス・キリストと人間との間には決定的な断層がある気がするからです。

 

・川流る山のふもとの蕗の薹  野衾