誠に「我が眼の洪水は神に喜ばれる供物」である。
神はその恩恵を之に映して七彩の虹をかけ給う。
幸なるかな、滝つ瀬の如く汝の涙をその溢れ出ずるに任せ、
「何時まで、何時まで?」「何故、何故?」
との泣願を神に為したる事ある者。
かかる者は神に慰められるのである。
嘗て私(矢内原)もこのアウグスチヌスとほぼ同じ年齢の頃、
浅間山麓の小山を溶かすかと思われるばかりに眼の洪水を溢れさせ、
「神様、どうして? 神様、どうして?」
と叫びつつ、
山を叩かんばかりに幾度となく下っては上り、
上っては下って居た。
然るに見よ、
私の心は突然軽くなり、涙の泉は立ちどころに止まり、
次の瞬間には微笑さえ私の唇に浮んだ。
その如何にしてかを私は知らないけれども、
私の心に平安が与えられたのである。
私は神の赦を讃美しつつ、山を下ったことを告白する。
(矢内原忠雄『土曜学校講義 第一巻』みすず書房、1970年、p.184)
仏教でもキリスト教でも、文章を読んでいて、迫力に打たれ、
血が通っていると感じられるものに触れると、
おしなべて、
こういう経験に裏打ちされていることに気づきます。
たとえば、親鸞、白隠にして然り、
パウロ、アウグスティヌス、マザー・テレサ、田中正造にして然り。
矢内原の文章の迫力も、
上に引用したような経験あったればこそと納得。
ひとつ気になったのは、
比喩。
涙を表すに
「浅間山麓の小山を溶かすかと思われるばかりに眼の洪水」
アウグスティヌスもそうですが、
眼の洪水だもん。
ダ~~~!!
山の上り下りを表すに
「山を叩かんばかりに」
デンデンデン、ザクザクザク、どんだけ強く踏みつけたの。
笑いが好きなわたしは、
これを比喩でなく、
事実としてマンガに描いたらさぞおもしろいのではないか、
などと不謹慎なことを思い浮かべ。
でも、
それぐらい強烈な体験だったんでしょうね。
あ。
きょうから二月。
・秋田出でいつか近江の春と逢はむ 野衾