高校の一年生と三年生の時の担任が同じで、
たしか武藤先生とおっしゃいました。
小柄で物静かな国語の先生、わたしは陸上競技部に所属していましたから、
武藤先生の語り口調は、
耳に心地よく、子守歌のようでもあり、
授業中よく居眠りをしました。
とくに注意されることはなかったと思います。
一年生のときだったか、
三年生のときだったか、
目を覚ましているときに、教科書に出てきた「空」の話をされた。
空というのは、何もないことではない、
無というのともちがう、
そんなことをぽつぽつと語りながら、
ほんのしばらくでしたが、
視線を宙に据えていたのを覚えています。
言葉で説明するのはなかなかに難しいという風でもあり、
はたまた、
ご自身の過去を思い出している風にも見えました。
ともかく、
空というのは、どうやら、
中身のない「から」ではなく、
実のあるものらしいということだけは、
ぼんやりと感じました。
さて、公田連太郎の『易經講話』ですが、
そのなかにおもしろい文章がありました。
「私(エゴ)」の有る無しのちがいによる認識のありかたについて、
公田さんの考えを吐露した箇所で、
そこを読みながら、
高校時代のあの空間と時間が
にんじゃりばんばん、鮮やかに、
よみがえりました。
中が空虚であるのは、一点の私の心が無いのであり、即ち誠実である。
中が充実して居るのは、誠が中に充実して居るのであり、即ち誠実である。
一点の私の心の無い方面から、空虚なる者を誠とするのである。
内容が充実して居る方面から、充実したる者を誠とするのである。
両方の極端は一致するのである。
程子(伊川先生)は、
「中(うち)虚なるは信の本なり、中(うち)実するは信の質なり」
と曰つて居られる。善い格言である。
(公田連太郎[述]『易經講話 一』明徳出版社、1958年、pp.560-561)
・磴一段一段毎の紅葉かな 野衾