「本当の易」とは

 

哀しみも楽しみも皆同じわけである。むやみに感情をおさへ、
為すべき事を控へ目にすることを、中といふのでは無い。
これを善く理解して置かぬと、易の中は分らぬ。
中庸の中も実は同じことである。
易の中は、
活発に活動し変化して、一刻も停止してゐない中なのである。
今日は斯うすることが中であつても、
明日はそれでは中にならぬのである。
時時刻刻に変化するのである。
卦の形の上では、中は真中に在るけれども、
それを活用する上では、終始動いて変化して居るのである。
これを善く理解しないと、
本当の易にはならぬのである。
(公田連太郎[述]『易經講話 一』明徳出版社、1958年、pp.54-55)

 

中国の古典、たとえば、論語や老子、荘子を読んでいると、
どうやらベースに易があるということを感じますから、
公田連太郎の『易經講話』を古書で五冊まとめ買いしていましたが、
なんとなく読まずに来ていたところ、
ユングの『結合の神秘』に何度か易のことがでてきましたので、
これを機に読もうと思い読みはじめたら、
一巻目の初めの方に、上で引用した文言が現れ、
そうか、と、納得するところがありました。
易というと、
占いのことと思いがちですが、
それだけではない、もっと奥の深い、
人事を含む宇宙万物の変化の理法を明らかにするというところに、
その根本義があるようです。
ちなみに公田連太郎の師匠にあたる人物に根本通明(ねもと みちあき)がいますが、
この人は秋田生まれだそう。
最近になってそのことを知りました。

 

・でたらめの言葉の秋の渚かな  野衾