仕事師の手帳

 

キリスト者新井奥邃(あらい おうすい)は、
聖書を「仕事師の手帳」であると記しています。
その言葉を切実に感じ出したのは、齢五十を過ぎてからだった気がします。
聖書を「仕事師の手帳」と称した奥邃の魅力に
ますます取りつかれましたが、
きのうここに書いた公田連太郎の『易經講話』を読んでいると、
易は、まさに「仕事師の手帳」であると感じます。
本のなかで公田さんは、
工夫・応用が大切であることを幾度も強調されています。
字面を理解して終りにするのではなく、
たとえば、
百姓は百姓なりに、お笑いの人はお笑いの人なりに、教師は教師なりに、
工夫し応用する。
そんなふうに読まないと「本当の易」にならない、
そういうことのようです。
工夫・応用が大切なのは、聖書も同様であるなと。

 

・立ち尽くす秋の渚の黙すかな  野衾