完成はない

 

成熟するとは、
生に調理を任せておくこと、果実のようにどこに落ちるか見ることなく、
落ちるままにさせておくこと、である。
幼児のままに留まるとは、
鍋の蓋を開けたいと望むこと、
見てはならないはずのものをすぐに見たいと望むこと、である。
だが、
先のことは考えないで禁じられた扉を開けてしまう寓話の登場人物たちに、
どうして共感せずにいられようか。
(ジョルジョ・アガンベン[著]/岡田温司[訳]『書斎の自画像』月曜社、2019年、p.50)

 

しばらく会っていない友人に電話をし、久しぶりに元気な声を聴きました。
本をよく読む人なので、
いまどんな本を読んでいるの?と訊いたところ、
教えてくれたのが
ジョルジョ・アガンベンの『書斎の自画像』でした。
『ホモ・サケル』で有名なアガンベンですが、
『ホモ・サケル』をふくめ、この人の本を読んだことがなかったので、
いい機会と思い、
『書斎の自画像』をさっそく求め読みました。
タイトルどおり、おしゃれで、散文詩のようでもあり、
おもしろかった。
ハイデガーといっしょに写した写真があり、
老哲学者の姿が印象的でした。
上で引用した箇所を読んだとき、
夏目漱石の言葉を、うろ覚えのまま思い出したので、
適当なキーワードを入れて調べたら出てきました。
アガンベンの趣旨とはニュアンスが異なりますが、
わたしの生の中で、どこか響き合うところがあったようです。
漱石の『道草』にある言葉。

世の中に片付くなんてものは殆どありゃしない。一遍起った事は何時までも続くのさ。
ただ色々な形に変るから、他にも自分にも解らなくなるだけの事さ。

 

・誇り無き吾に友あり秋の風  野衾