大音声

 

おとといの夜のことでした、
文字どおり、ぎゃ~~~っ!!という、
耳をつんざくような大音量の悲鳴に起こされました。
声の大きさとただならぬ緊迫感から、
すぐに、
ああ、これはゴキブリ、
と思いました。
むくり起き出しすと、
家人、
「アレ! アレ! アレ!」と、
工事現場の人形のように、ある方向を指さしています。
見れば、
でっかいゴキブリが、
天井角の暗い影に身を潜ませ、張り付いているではありませんか。
しばし凝視。
なるほど、と思いました。
ゴキブリは暗いところを好むので、
現われたら、
黒い布切れをゴキの上にかぶせ、
それから捕まえるといい、
みたいなことをテレビでやっていたのを思い出したからです。
天井なので、
布を被せるわけにもいかず、
この度は、
ゴキジェットプロにて退治した次第。

 

・歩くほど何処も彼処も虫の声  野衾

 

歩く

 

仕事の打ち合わせのため、
久しぶりに東京まで出向きました。
歩きながら、電車に乗りながら、いろいろな思念が浮かんできましたが、
そうか、
こんな感じでふつうに移動できるのは、
このごろ痛風発作に襲われていないせいでもあるな、
と思い至りました。
そう思ったら、
歩けるのがなんともありがたい
ことに思えてきました。
経験のある方はご存じでしょうが、
痛風発作の痛みというのは並大抵でなく、
とは言い条、
痛みを押してでも、
どうしても出掛けなければならないときがあり、
そんなときは、
一歩が痛く、重く、つらい。
横をすたすた歩いていく人が恨めしく思えたものです。
きのうは、
一歩一歩の6773歩でした。

 

・野良猫も吾も世も歪む残暑かな  野衾

 

違和感とズレ

 

このごろテレビでよく見るお笑いの人に、
たとえば、EXIT、宮下草薙、フワちゃんがいます。
ほかにもいますが、
いまこの三者をあげたのは、
はじめてテレビで見たとき、
正直に言って、あまりおもしろいと思わなかったからです。
むしろ違和感が先に立ちました。
ところが何度か見ているうちに、EXITも、宮下草薙も、フワちゃんも、
違和感がなくなる、
どころか、いつの間にか、
好きで見ているじぶんに気づきました。
じぶんの変化に驚きます。
かと思えば、
かつて割と好きで見ていた人の立ち居振る舞いに、
違和感を感じてしまうことがあったり。
時代の空気というのがきっとあるのでしょう。
気づかぬうちに、
見る側も、
見られる側も、
すこ~しずつズレていき、
本人は気づかないのに、
周りから見たら大きくズレている、なんてことがあるかもしれません。

 

・アスファルト発火直前残暑かな  野衾

 

学問の貢献度

 

社会の要求というものは性急である。
とくに、めまぐるしく変化する現代にあっては、社会は、
いますぐ役にたつものを欲しがる。
学問にも、それを求める。即戦力になる学問を期待するのである。
だが、
いささかなりとも学問の世界に足をふみ入れたことのあるひとなら、
本当の学問・研究がそんな即効薬みたいなものでない
ことはじゅうぶん知っている。
即効薬をつくるには、
まずその前に地道な基礎研究の時間がなければならず、だが、
基礎研究そのものは、じつは現実社会でほとんど直接の役にはたたないのである。
社会生活に直接役にたつかどうかは、だから、
その学問が社会に貢献しているかどうかの指標にはならない。
そもそも、
学問や研究というものは、俗世間のいとなみとは縁が薄いものなのだ。
ノーベル賞受賞者の知名度が受賞前後で天地のひらきのあることが、
それを如実に示している。
(白石良夫『うひ山ぶみ』解説、本居宣長「うひ山ぶみ」全訳注、
講談社学術文庫、2009年、p.41)

 

寛政10年(1798)に35年の月日をかけた『古事記伝』を完成させた宣長は、
古学の入門書『うひ山ぶみ』を一気に書き上げました。
その全訳注を白石良夫さんがやっていて、
冒頭の解説に、上で引用した文章がでてきます。
白石さんのプロフィールを見ると、
九州大学大学院修士課程を終了後、
1983年に文部省(現在の文部科学省)に入省し、
教科書検定に携わってもいます。
文部省に、
こういう考えをもつ人がいたということに驚きます。

 

・秋の風白くなりゆく内外(うちと)かな  野衾

 

科学も文化

 

日本の大学での化学教育と研究が理学部だけでなく、
初めから工、医、薬、農の応用も含めた諸学部で行われたことは
日本の1つの特色で、
これが広い分野での日本の化学の発展を可能にしたともいえよう。
しかし、
長いユダヤ・キリスト教文明の伝統の中で科学が発展した西欧と違って、
科学の実用的価値を過度に重視する傾向が強く、
科学を文化の1つとして捉え、
自然の謎を解き明かすことを主眼として、
長期的な視野で科学を育てる気風が弱かったことは
化学に関しても例外ではなかろう。
(廣田襄『現代化学史――原子・分子の科学の発展』
京都大学学術出版会、2013年、p.155)

 

化学史の本なので、俯瞰した記述はここで終っていますが、
国の予算の使い方を考えるとき、
著者の廣田さんが指摘していることは、
過去のことでなく、
いま現在の問題であるし、
こんご深く考えていかなければいけない視点であろうと思います。

 

・ガチガチと音まですなる百足かな  野衾

 

化学と染料

 

19世紀の後半には、パストゥールやコッホの研究に基礎を置いて細菌学が発展し、
伝染病の原因として細菌が特定された。
コッホは1872年に顕微鏡観察の際、アニリン染料で細菌を選択的に染色した。
1889年コッホの助手であったエールリヒは
適当な染料を使えば細菌を殺すこともできるであろうと考え、
1891年にマラリア原虫にメチレン・ブルーが作用する
ことを見出した。
こうして化学療法が始まり、
選択的に細菌に作用し、
副作用をもたない有機化合物を体系的に探索する試みが始まった。
これらの試みが実を結んで、
梅毒の治療薬サルバルサンなどが開発されるのは20世紀になってから
のことであるが、
化学療法は染料化学から分かれて誕生したといえよう。
(廣田襄『現代化学史――原子・分子の科学の発展』京都大学学術出版会、
2013年、p.146)

 

高校時代、化学の授業を受けましたが、
化学式の計算問題ばかりをやらされた記憶があり、
おもしろかったという印象は、
残念ながらありません。
親しくしている京都大学学術出版会専務理事の鈴木哲也さんが薦めていたので、
廣田襄さんが書いた『現代化学史――原子・分子の科学の発展』
を読みはじめたところ、ぐいぐい引き込まれます。
化学は、化学だけではないでしょうけれど、
世界の神秘を解き明かそうとする姿勢がその根本にある
ことを、
この本は気づかせてくれます。

 

・蜩や十月十日を海の旅  野衾

 

コロナ後の学術出版社

 

一つの重要な発展は、古代世界の直接的な情報の急速な増大という形をとった。
人文主義者たちは、とくに修道院の図書館で、
気に入った古典の著者のさらなる文献を系統的に調査し始め、
とりわけ(ペトラルカの表現によれば)彼らが古代の「偉大な天才」とみなしたキケロの
テキストをさらに探し求めた。
こうした宝探しは急速に一連の重要な発見をもたらした。
キケロの『縁者・友人宛書簡集』の完全なテキストが
サルターティにより1392年にミラノのカテドラル図書室からよみがえった。
(クエンティン・スキナー[著]/門間都喜郎[訳]『近代政治思想の基礎――
ルネッサンス、宗教改革の時代』春風社、2009年、pp.99-100)

 

ヨーロッパ政治思想の名著とされるものの翻訳ですが、
この度の新型コロナウイルスのことがなければ、
自社で出版した本を、切実な気持ちで読み返すことはなかったと思います。
日々、こころも、カラダも、アタマも変化します。
コロナ禍を回避するための手立てがさまざまに講じられており、
わたくしどもも、
目の前の原稿に誠実に向き合うことにおいては以前と変りありませんが、
あらためて、
この度のことを契機とし、
コロナ後の学術出版の意義について考えてみました。

 

現在に沈潜し、未来を想像してばかりでも埒が明かないところがあり、
どうしても歴史を振り返らざるを得ません。
かつて、ヨーロッパにおいてペストが大流行し、時を経て、
ルネサンスの時代がやってきます。
ペストがルネサンスを用意したとの言説も目にしますが、
ペストの大流行とルネサンスの間には100年の時が挟まれています。
ペスト禍のなかで聖職者も多数犠牲になったといわれます。
修道院で古典を渉猟する人文主義者たち(上の引用文)が登場するまえに、
歴史はすでに、
ペスト禍=黒死病を経験していました。
スキナーは、
ペスト禍との関連でルネサンスを論じているわけではないけれど、
神でなく人間の「偉大な天才」を求め写本を漁った人びとの情熱の底に、
ペストの禍根がまざまざと残っていたのでは、
と想像されます。
やがて、神にすがるのでなく、
人間のありようを凝視する文芸復興の時を迎えますが、
2020年の現在が、ペスト禍の時代に準えることができるとすれば、
ペトラルカ(彼はペスト禍を経験している)を経て、
100年後には、
レオナルド・ダ・ヴィンチをはじめとする、
いま現在においては想像すらできない人物群が登場するかもしれず、
巨いなるパラダイムシフトが起こらないとも限らない。
まだ見ぬ傑物たちの登場を用意するのは、
かつての時代がそうであったように、
学問の灯を絶やさぬことにあると確信します。
電池切れで全てが無に帰してしまうことのないように、
だれが、どこで、いつ、なにを、どのように論じたのかを明確にし、
それを紙媒体に残し、
積み重ねていく時間が必要ではないでしょうか。
倦まず弛まず、
いわば我慢する学問の営みが、今ほど求められる時はないと信じます。
次世代を担う子どもたちの姿を思い浮かべ、
息のながい学問とふかい情愛を湛える研究を待ち望み、
後世に手渡すべく、誠心誠意、
高質の学術書を出版する版元でありつづけたいと祈念するところです。

 

春風社代表 三浦衛