私の経験によれば、
どこからも入院を拒絶されがちな患者さんをみていると、
暴力でも、理屈でもなく、音声である。「声がすごいんです」と主治医がいう。
問題はもっぱら声にあった。
私は会ってみた。
その音調は話題を問わず
「ブリキの板で脳味噌を直接切りさいなまれている」感覚を起こさせた。
しかも、
間を置かず、「あのー」の間の手もなく、
私が口をはさむ隙間が全くない。
この音調を二時間以上ただ聴いていると、私の脳は全く麻痺する。
必ず左耳で電話を受ける私は左耳の高音部の聴力を四デシベル低下させた。
右脳に入ることになることがポイントかどうか、
私は必ず左耳で受ける。
右耳で受けると心なしか乾いた論理しか伝わらないようだ。
ブリキ板への私の対応は、
無理でもゆっくりと低音で返事するか、音調をせせらぎのようにして、
細い、しかし明快な声で答えることであった。
これは重荷ではあったが、
相手はいつしか穏やかな音調に変わっていった。
(中井久夫『私の日本語雑記』岩波書店、2010年、p.231)
さすが中井久夫さんと思いました。
わたしも左耳で電話を受けますが、そうしている人は多いのではないでしょうか。
いずれにしても、
コミュニケーションにとって、
話の中身よりも声がいかに重要か、
そのことを改めて考えさせられました。
もう一つ。
三橋美智也の歌を聴いて、
ぽつり、
「このひとの声だば、世話してもらえるような気がする」
と漏らした母の言葉を思い出す。
・新聞をキオスクまでの今朝の秋 野衾