クジラがやってきた!

 

たまに寄る革細工の店がありまして、
先日久しぶりに立ち寄りました。
まえに買った革の切れ端が自宅のマウスパッドにちょうど良く、
重宝しているので、
またそういう切れ端が欲しくなったのです。
店の中に入り、
なじみの店員さんに話しかけると、
数時間前に切れ端を全部買っていったひとがいたのだとか。
なので一つもありません。
そうですか。
いや、
ちょっと待ってください。
と、
奥の方へ入っていき、
こんなのでよければといって
少し大ぶりの革の切れ端を出してきてくれました。
いい、いい、
全然いいじゃないですか。
これ売っていただけるんですか。
いくら?
500円。
ほんとに?
はい。
ということになり、
黒い革の切れ端を500円で購入、
家に帰ってから四つ五つにハサミで切り離し、
あ~らら、コースターや家人のテレワーク用マウスパッドに変身。
いちばん大きい切れ端はテーブルマットに。
コーヒー豆を挽くとき下敷きにすると、
ミルがほとんどズレなくてとても具合がいい。
ん!?
あ!
クジラだ。
クジラのかたちに似ている。
てきとうにハサミで切っただけでしたが、
見ようによっては
それがクジラに似ていることを発見し、
ちょっぴりなんだかとっても
ハッピーハッピー。
下の写真がそれです。

 

・カーテンがふくらみしぼむ梅雨晴れ間  野衾

 

パケ買い

 

むかしLPレコードを買っていたころ、
とくにジャズの聴き始めは、
何がどういいのかさっぱり分かりませんから、
レコード店で実際にレコードを手に取り、
もっぱらジャケットのかっこよさを頼りに購入しました。
かっこつけていたんですね今から思えば。
とは言い条、
じぶんがかっこいいと思った
だけであり、
ほかのひとが見たらなんというか
は分かりませんでしたけれど。
ハンク・モブレーのディッピンなんかはその筆頭。
レコードがCDになって、
あまりジャケ買いしなくなりました。
ではありますが、
こんどは食べ物、
とくにお菓子類。
コンビニなんかで初めて商品を見、
すぐに買うことはなくても、
何度か目にしているうちになんとなく気になって、
その店に行くたびに、
そこへ目が行くようになり、
まるで、
買わないことがちょっと後ろめたいような気になりはじめ、
高い買い物でなし、
エイと買うことが間々あります。
下の写真はその一つ。
美味しくいただいています。

 

・カーテンの肘に寄り来る南風(みなみ)かな  野衾

 

森有正のこと

 

大学のゼミの先輩に長谷部さんという方がいました。
専門分野のものに限らず、
よく本を読むひとでしたが、
その先輩から、
森有正の『バビロンの流れのほとりにて』をいただきました。
ながく手元にあったはずですが、
いまその本はありません。
すこしは読んだかもしれないけれど、
最後までは読まなかったと思います。
申し訳ないことでした。
ところが、
アランのものをこのごろ読むようになり、
そうすると、
どうしても森有正が視野に入ってきます。
森有正の〈経験〉が気になりはじめています。
いま手元には、
「バビロンの流れのほとりにて」
をふくむ
五巻セットの『森有正エッセー集成』(ちくま学芸文庫)
があります。
他人事みたいな言い方ながら、
じぶんのいまの興味のありようからいって、
こんどはちゃんと
読めそうな気がします。
これもまた読書、本という経験かなと。

 

・時を超え都も鄙も梅雨茫茫  野衾

 

ことばのかいしゃ

 

きのう、
だいじなメールを送る前に、見て欲しいと、
ある編集者が、
わたしのところにやってきました。
A4判のコピー用紙に出力したメールに目を通し、
気になるところに朱を入れ、
それから何度か読みかえしこれでよしと思ったので、
編集者を呼んで用紙を返しました。
校正をしながら、
目の前の文章を読んでいるうちに、
それを書いた彼女のこころが見えてくるような気がしました。
胸が熱くなりました。
わたしが入れた朱は、
こころの輪郭を少しだけはっきりさせ、
文章にこめられたこころを、
相手の方にきちんとわたすためのものだったかと思います。
朱を入れたことが、
その目的にかなっていたかどうかは、
メールを読んでくださる当の本人しか分からない
ことですが、
いつもしている類のことながら、
深く感じるところがあり、
きょう、ここに書いて残しておこうと思いました。
言わずもがなのことながら、
こころは見えません。
ことばをととのえていくことで、
ようやくそのかたちが見えてくるような気がします。
こころが初めから見えるなら、
ことばは要らないかもしれません。

 

近江の海 夕波千鳥 汝が鳴けば 心もしのに いにしへ思ほゆ

 

柿本人麻呂によって詠まれたつとに有名な歌、
万葉集巻三にあります。
声に出して読むことで
ゆったりとした韻律とともに、
歌にこめられたこころが感じられるから、
すばらしいのだと思います。
さて、このブログを始めてから二十年が経ちました。
前日あったことのなかで印象に残ったこと、
そして、
そこに生じたこころをことばにして見えるようにする
ために書いてきたのでもあったかと、
思います。
こころをかたちにすることばのかいしゃ。
とじぇねわらしは、
そんなかいしゃをつくってきたことになりそうです。

 

・梅雨ごもり眼を上ぐ先の尖り屋根  野衾

 

徂徠にとっての読むこと

 

彼はいう、
書物を読むとはどういうことか。書物そのものを読むことである。
その「本来の面目」において読むことである。
世上の「講釈」のように、無用の附加をすることではない。
われわれの読む中国の古典、その本来の面目は、
何よりもまずそれが中国語であることである。
ゆえにまずあくまでも中国語として読まれねばならぬ。
過則勿憚改は、
アヤマテバスナワチ云云ではなくして、コウ ツヱ ホ ダン カイ、である。
それをそのとおりに読むのが、万事のはじまりである。
当時それは長崎通事の仕事と意識されていたゆえに、
彼はそれを「崎陽(きよう)の学」と呼ぶ。
しかし「崎陽の学」はまだ普及しない。
二次的な方法として、
アヤマテバスナワチアラタムルナカレと、
いかめしい雰囲気をもつ訓読よみを、せめてものことに廃棄する。
その代替として、平易な日本の口語におきかえる。
シクジッタラヤリナオシニエンリョスルナ、
あるいは
シクジリハエンリョナクヤリナオセ。
そうした俗語へのおきかえを、彼は「訳」と呼び、
従来の訓読「和訓」の方は、「訓」と呼んで、両者を区別する。
かく「訓」を廃棄して「訳」を方法とすることを、
「崎陽の学」すなわち中国音を知らないものは、せめてもの方法とせよ。
(吉川幸次郎「徂徠学案」『日本思想大系36 荻生徂徠』解説、岩波書店、1973年、pp.648-9)

 

吉川幸次郎の解説は、
さらにつづいて面白くなるけれど、
引用した箇所を読んだだけでも、
吉川がじぶんの考えを徂徠に重ねていたことが容易に想像できる。
話は飛ぶけれど、
ここの箇所からすぐに吉本隆明のことを思い出した。
外国語が読めなかった吉本は、
思想書でもなんでも翻訳書で読んだらしい。
それである時期まで、
日本のオピニオンリーダーとして、
なにかに言説が取り沙汰されたのだから大したもの。
それと、
また話が飛ぶが、
「崎陽の学」の崎陽。長崎の異称だそうだ。
江戸時代に漢学者が長崎のことを中国風に呼んだものなのだとか。
ところで「崎陽」といえば、崎陽軒。
シウマイ弁当。
創業者の久保久行が長崎出身だったことから、
長崎の漢文風の別称である「崎陽」をとり入れ、崎陽軒。
知らなかった!

 

・風止みて木漏れ日しくと揺れてをり  野衾

 

私の方言学習

 

万葉集をはじめとして日本の古典を読んでいると、
あれこの言葉?
と、
目がとまることが少なくありません。
「あやまち」もそのひとつ。
子どものころから聴きなれた言葉に「あみゃじ」があり、
これは今でも地元で使われていますが、
「あやまち」と「あみゃじ」について思うところを記し
秋田の新聞に投稿したところ、
今月7日に掲載されました。
コチラです。
耳になじんだ言葉が歴史とふかくつながっていることを知る
のは、
じぶんが生かされてあることの喜び
でもあります。

 

・梅雨晴れ間サインポールの廻る廻る  野衾

 

敬虔について

 

生きている人に感嘆するのは容易でないことは私も認める。
本人自身が私たちを失望させるのだ。
だが、
その人が死ぬやいなや、態度はきまる。
子としての敬虔が、
感嘆する喜びに従ってその人をたてなおすのであり、
この喜びこそ本質的な慰めなのである。
どの炉辺にも炉の神々が作りあげられ、
これらすべての努力――じつは祈り――は、
私たちより偉大で美しい偉人たちの像を立てることに集中される。
これからは、
彼らは私たちの模範、私たちの立法者なのだ。
だれもが自然よりすぐれた人間を模倣する。
それは父親でも、先生でも、シーザーでも、ソクラテスでもよい。
そして、
人間が自分をすこしでも上に引き上げるのは、
これによる。
(原亨吉[訳]『アラン 人間論』白水社、1989年、pp.108-109)

 

「○○さんが生きていたら、なんというだろうか?」
という言葉をいろいろな場面で目にし、
耳にします。
じぶんのことを振り返っても、
先師を思い浮かべ、そう思ったことは一再ならず。
林竹二の『若く美しくなったソクラテス』を思い出します。
「若く美しくなったソクラテス」とは、
プラトンのこと。
目の前の困難に向かうときに、
「○○さんが生きていたら、なんというだろうか?」
と自らに問いかけることは、
困難のさなかにあって、
小さくはあっても、大きな慰めです。

 

・甘酒や箱根の山の日の名残り  野衾