敬虔について

 

生きている人に感嘆するのは容易でないことは私も認める。
本人自身が私たちを失望させるのだ。
だが、
その人が死ぬやいなや、態度はきまる。
子としての敬虔が、
感嘆する喜びに従ってその人をたてなおすのであり、
この喜びこそ本質的な慰めなのである。
どの炉辺にも炉の神々が作りあげられ、
これらすべての努力――じつは祈り――は、
私たちより偉大で美しい偉人たちの像を立てることに集中される。
これからは、
彼らは私たちの模範、私たちの立法者なのだ。
だれもが自然よりすぐれた人間を模倣する。
それは父親でも、先生でも、シーザーでも、ソクラテスでもよい。
そして、
人間が自分をすこしでも上に引き上げるのは、
これによる。
(原亨吉[訳]『アラン 人間論』白水社、1989年、pp.108-109)

 

「○○さんが生きていたら、なんというだろうか?」
という言葉をいろいろな場面で目にし、
耳にします。
じぶんのことを振り返っても、
先師を思い浮かべ、そう思ったことは一再ならず。
林竹二の『若く美しくなったソクラテス』を思い出します。
「若く美しくなったソクラテス」とは、
プラトンのこと。
目の前の困難に向かうときに、
「○○さんが生きていたら、なんというだろうか?」
と自らに問いかけることは、
困難のさなかにあって、
小さくはあっても、大きな慰めです。

 

・甘酒や箱根の山の日の名残り  野衾