徂徠にとっての読むこと

 

彼はいう、
書物を読むとはどういうことか。書物そのものを読むことである。
その「本来の面目」において読むことである。
世上の「講釈」のように、無用の附加をすることではない。
われわれの読む中国の古典、その本来の面目は、
何よりもまずそれが中国語であることである。
ゆえにまずあくまでも中国語として読まれねばならぬ。
過則勿憚改は、
アヤマテバスナワチ云云ではなくして、コウ ツヱ ホ ダン カイ、である。
それをそのとおりに読むのが、万事のはじまりである。
当時それは長崎通事の仕事と意識されていたゆえに、
彼はそれを「崎陽(きよう)の学」と呼ぶ。
しかし「崎陽の学」はまだ普及しない。
二次的な方法として、
アヤマテバスナワチアラタムルナカレと、
いかめしい雰囲気をもつ訓読よみを、せめてものことに廃棄する。
その代替として、平易な日本の口語におきかえる。
シクジッタラヤリナオシニエンリョスルナ、
あるいは
シクジリハエンリョナクヤリナオセ。
そうした俗語へのおきかえを、彼は「訳」と呼び、
従来の訓読「和訓」の方は、「訓」と呼んで、両者を区別する。
かく「訓」を廃棄して「訳」を方法とすることを、
「崎陽の学」すなわち中国音を知らないものは、せめてもの方法とせよ。
(吉川幸次郎「徂徠学案」『日本思想大系36 荻生徂徠』解説、岩波書店、1973年、pp.648-9)

 

吉川幸次郎の解説は、
さらにつづいて面白くなるけれど、
引用した箇所を読んだだけでも、
吉川がじぶんの考えを徂徠に重ねていたことが容易に想像できる。
話は飛ぶけれど、
ここの箇所からすぐに吉本隆明のことを思い出した。
外国語が読めなかった吉本は、
思想書でもなんでも翻訳書で読んだらしい。
それである時期まで、
日本のオピニオンリーダーとして、
なにかに言説が取り沙汰されたのだから大したもの。
それと、
また話が飛ぶが、
「崎陽の学」の崎陽。長崎の異称だそうだ。
江戸時代に漢学者が長崎のことを中国風に呼んだものなのだとか。
ところで「崎陽」といえば、崎陽軒。
シウマイ弁当。
創業者の久保久行が長崎出身だったことから、
長崎の漢文風の別称である「崎陽」をとり入れ、崎陽軒。
知らなかった!

 

・風止みて木漏れ日しくと揺れてをり  野衾