通り過ぎる馬

 

岩波の完訳三国志を読んでいましたら
二度ばかり、
家の前を馬が通り過ぎるような
という比喩がでてきまして、
これは
人生の短さをたとえたものだということで、
そういわれると、
馬が家の前を走っていくのは
アッというまのことでしょうから、
納得します。
が、
家の前を通り過ぎるものとして
なぜ馬か、
というところが中国風でおもしろいと思います。

 

・南風や雲の切れ間の光りをり  野衾

 

カナヘビ

 

ちっちゃなカナヘビがベランダに現れました。
ちっちゃいちっちゃい。
と、
またすぐに同じようなのが。
きっといっしょに生まれたのでしょう。
幼体を示す青のしっぽがきれいです。
ちょろちょろちょろちょろ。
えさをさがしているのでしょうか。
立つことを覚えた赤ん坊が立ったりしゃがんだりを繰り返すみたいに、
あちこちちょろちょろちょろちょろ。
ほかはなんにも動きません。

 

・とかげ来てまた二匹目のとかげかな  野衾

 

五臓の鬱結

 

万葉集の868から870の三首は、
松浦巡行に参加できなかった山上憶良が
不満と羨望をこめて大伴旅人に謹上した作とのことですが、
その前文に、
「謹みて三首の鄙歌(ひか)をもちて、
五臓(ごぞう)の鬱結(うつけつ)を写(のぞ)かむと欲(おも)ふ」
とあります。
これについての伊藤博さんのかんがえは下のとおり。

 

詩歌は人間の鬱情を払う具であるという認識を明確に示す、日本での早い時期の語句で、
注目に値する。
この認識は、前期の人麻呂においてすでに顕著であり、
憶良・旅人へと深められ、家持へと盛り上げられていくが、
こういう語句は、
人麻呂にはまだない。
(伊藤博『萬葉集釋注 三』p.139、集英社文庫、2005年)

 

人間の鬱情を払うために歌をよむのか…
なるほど。
そのことをふまえて万葉集の歌群をみていくと、
合点がいくものが少なくなく、
また、
千三百年のときをこえて、
歌にこめられたこころがひしひしと感じられもし、
ひとごとでない気がしてきます。

 

・かたつむり牛の涎の歩みかな  野衾

 

い、い、

 

行きつけの鍼灸院でのこと。
施術してもらう空間はカーテンで仕切られているだけですから、
先生とほかの患者さんの会話はとうぜん聞こえてきます。
わたしもそうですが、
施術してもらいながら、
痛みやじぶんの体調についていろいろ漏らし、
先生はそれをふんふんと聞きながら、
なだめたりすかしたり、
適宜食事の指導をしたり
運動の指導をしたり。
じぶんのことではありませんが、
となりから聞こえてくる会話がとても参考になります。
天気の状態が乱れると
それに伴って体調を乱すひとが多くなるのだとか。
ことしはとくにその傾向が強いようです。
先日、
高齢の女性と思われるひとが
先生に導かれるまま奥の室に入ったようでした。
間もなく、
このごろの体の不具合について先生にうったえています。
先生はゆっくり、
ここはどうですか?
「痛い・です」
こっちはいかがですか?
「痛い・です」
ここは?
「い、痛い、です」
ここはどうですか?
「い、い、痛い!でございます」
……………
笑ってはいけませんが、
「でございます」がツボにハマり、
悪いと思いつつ
プッと笑ってしまいました。

 

【秋田県井内神社におはします火傷の御神体を参拝して】
・さつきあめ火傷の神の夢見かな  野衾

 

体温を感じる戦

 

龐徳は足軽に命じて口汚くののしらせたが、
関平はまるでかまいつけず、
要所をしっかと押さえ、
また手分けして間道の防備にあたらせるとともに、
敵が悪態(あくたい)をついて戦いをいどんでいることを関羽の耳に入れぬよう、
諸将に言いつけた。
(小川環樹・金田純一郎訳『完訳三国志』五、p.302、
ワイド版岩波文庫、2011年)

 

決死の覚悟で戦にのぞむ龐徳(ほうとく)との決戦をえがく場面において、
関羽の養子・関平のこころくばりを記す箇所。
なんでありますが、
三国志を読んでいると、
残酷なシーンがてんこ盛り
であるにもかかわらず、
クスっと笑ってしまうシーンがたびたび出てきます。
それは、
引用した箇所にもみられるように、
口汚くののしったり悪態をついたりして、
むかいあう敵将が怒るように
わざと仕向けていること。
戦闘場面ではそうするのがあたかも礼儀ででもあるかのごとく。
たとえば、
感情のないロボットによって
無差別に人を殺すようなことは
時代がちがうとはいえ絶対にありません。
それと、
その土地その土地に住む庶民の暮らしを気づかうのも、
なるほどと合点がいきます。

 

・五月雨や泥鰌の泡の五つ六つ  野衾

 

忘れ物

 

気を付けても気を付けても、
よく忘れ物をする子どもでありました。
なんでもよく忘れました。
高校生のとき、
新しいズボンを買い、
裾上げしてもらったのを包装してもらい支払いを済ませての帰宅途中、
それを、
公衆電話の下の棚へ置き忘れたことがあります。
緊張して電話していたせいか、
ズボンのことをすっかり
忘れていたのでした。
ハッと気づいて戻ったときには、
空虚な棚が
冷え冷えとそこにあるだけでした。
以来、
ゆっくりゆっくり、
なんども確かめて行動するようになって、
あまり忘れなくなった気もしますが、
よほど身に沁みているのか、
夢ではいまでも
よく忘れ物をして落ち込みます。

 

・とぼとぼと傘を忘れて夏の月  野衾

 

背中心

 

家人が着物の先生について勉強していることもあり、
休日、
和服を着て出かけることが多く、
ほとんどじぶんでちゃかちゃっと身支度し、
わたしはとなりの部屋でぼんやり本を読んでいますが、
しばらくすると、
家人わたしのところまで来て、
くるり。
「背中心ちゃんとなってる?」
さいしょはなんのことか分かりませんでした。
背中の中央にある上下の縫い目のこと
をそう呼ぶらしく、
そこだけは
じぶんで微調整するのがなかなかむずかしいようで、
ネコの手よりはヒトの手
のほうがましなので、
わたしがてきとうに直してやることになります。
どこをどうひっぱれば直るのか
おっかなびっくりやっていましたが、
ここというところを
グッと強く引くほうがどうやらいいらしいと
このごろ体で覚えました。
習うより慣れろということでしょうか。

 

・夏帯を直し背中をぽんとつく  野衾