索引

 ハダハダの腹を破りしブリコかな
? 秋田駅。上りエスカレーターが頂上付近に差し掛かったところで振り向くと、少し腰の曲がった母がこちらを見上げて手を振ったこと。
? 小学四年のときの担任の伊藤君枝先生が度の進んだ眼鏡をしていて、眼が大きく見えたこと。
? 町の後輩J君の家を訪ね、J君の記事の御礼を述べたとき。おふくろさんは板の間に正座し、しきりにお辞儀をし、おやじさんは愉快そうに体を反らせ大笑いしたが、二人の所作がJ君を髣髴とさせたこと。
? 小学一年のときの担任の伊藤陽子先生を訪ねたとき、先生の息子のお嫁さんがわたしにお茶を注いでくれたのだが、腕に水滴が着いていて、目を奪われたこと。
? 父と弟と三人で町一番のスーパーマーケットへ行き買い物をした。弟は、「ここのヤキトリ、美味いんだ」と言って、ヤキトリを籠に入れた。夕飯になり、弟は、わたしの皿にトリ皮の串を一本よこした。食べてみなよの合図だったろうか。
? 大晦日の日、父は、ハンチング帽を買ってきた。母に冷やかされたが、被った自分の姿を窓に映してみて、まんざらでもない様子であったこと。
? 今朝、柚木の夢をみたこと。
以上、順不同。
 ここ数日のあれこれをアトランダムに記憶していて、こんな風に書きでもしなければ、きっとすぐ忘れてしまいそうな儚いものだとは思うけれど、ノーベル賞をもらうような作家や科学者でも、歴史に名をのこすような詩人でも、世界にどれだけ触れられるのだろう。できるのはせいぜい索引作り。
 儚い瞬間は、結局どんな媒体によっても、とらえることができないのではないだろうか。そこには、人の手で触れられない何かがある。瞬間瞬間の緊密で再現不能の景と動作は見事というしかない。きっと、それでいいのだ。
 ハダハダを干して炙りし祖父の指

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