蛍火や近づくほどの水の音
今をときめくエド・はるみさんも出たという明治大学に行ってまいりました。
御茶ノ水駅で降りて徒歩5分ぐらいのところにある、大学とも思えない立派な建物がそれなのですが、いくつか建物があって、約束の時刻までそんなに間がなかったものですから、これは聞くほうが早いと思って、階段を下りてくるスーツ姿の髪の長い少々色黒のストライプのシャツを中に着た背の高いイケメン(階段の下で尋ねたわたしに覆い被さってくるような、そんな感じでした)に、目的の建物を尋ねたところ、イケメンっぽく、指を立て、ササッと教えてくれ、髪をなびかせて階段を下り、御茶ノ水駅方面に歩いていきました。
階段の下にいたので目に入ったのかもしれませんが、かのイケメンの鼻の中に、微かな鼻くそが乾いて風になびくような具合で付着していました。
生身の人に接した気がして、なんだか楽しくなりました。
梅雨染みて気功の朝や遠鴉
こちらでは梅雨らしくそれなりに雨が降っていますが、ふるさと秋田では晴天がつづき、水不足になっているようです。
我田引水ということばがあります。我が田に水を引く。
むかし学校で習った教科書に、田んぼの畦に片膝立てた農夫が団扇で顔を煽いでいる姿が描かれていました。人がいなくなった頃合を見計らって、貴重な水を自分の田んぼに引くのです。
水の奪い合いをなくすために、協同で灌漑用水路が作られるようになって、自分のところだけよければいいという我田引水は少なくなりました。
梅雨の駅こちらは男性トイレです。
本を売り、CDを売り、小金を集めてプリアンプを買い換えました。
ラックスマンのC-8fが下取りでけっこうな金額になったのも幸いし、ボルダーの810が新たに加わりました。
ひとことで言って、こんなに音が変わるとは思いませんでした。今までの音が重戦車なら、今度の音は軽飛行機。とにかく軽い軽い。
セット後、まずサム・クックの『ナイト・ビート』を聴いたのですが、サムの声が細かい粒子となって空中から降ってくるようです。ふわ〜っと、なんとも言えない心地よさ。音のシャワー、セラピー。こころまで軽くなるようです。
重いものや傷を腹に据え、それが癒え消化するのをじっと待ち、そのものの意味を味わうことも大切ですが、今は、とにかく軽みが心地よく、ふんわりふわふわしていたい。(ふんわり名人もブームだしね)
本もどんどん売って、最終的に残るのは、大菩薩峠と新井奥邃と大辞林と歳時記かな(笑)、なんて思っている今日このごろです。
ふやけ足梅雨に濡れゐし道三里
今、『世間師・宮本常一の仕事』という本をつくっています。
世間師は、せけんしと読んだり、しょけんしと読んだりします。ふつうには、せけんしでしょうね。
いろんなところへ旅をして見聞し、知識を獲得し、だけでなく、訪れた土地の人々に有益な助言をなす人のことを指します。
宮本さんは、世間師と呼ぶにふさわしい人でした。「エライ」民俗学者として何十巻にも及ぶ全集も出ていますが、宮本さんに関する今回の本を編集していて、宮本さんエライなぁと思うのは、人の話をよく聞くことです。
著者の斎藤さんは指摘しています。ほかの学者は、自分のテーマを持って、それに合った話を聞き出して終わりだけれど、宮本さんは違う…。宮本さんだってテーマがないわけではなく、ちゃんとあるけれど、宮本さんの話の聞き方は、テーマに合った話を聞き出すだけで終わらない。宮本さんに対面すると、みんな話したくなるんですね。その違いはどこから来るのでしょう。そのことをこの本では書いています。
斎藤さんは、愛知県安城市の市役所勤めをしておられます。学生の時に宮本の本を読み、感動し、ずっと読んで来られ、自分のなかであたためてきたものを今回、このような本にまとめます。民俗学にとくに興味のない人が読んでもおもしろい、ためになる本です。ためになる、というよりも、勇気が出る、といったらいいでしょうか。
学問でなくても、人の話を聞くことは、毎日だれでもやっていることですが、簡単なようでとても難しいことだと思います。
紫陽花や骨折の肩しくしくと
俳句をやってみようかなと、ふと思い、始めてから間もなく1年が経ちます。まだ1年しか経っていないの、という感じです。精進が足りないので、時間がゆるく感じられるのでしょう。
俳句になっているのかどうかもわかりません。句会に入ったほうがいいのかもしれませんが、それもその時の縁と気分次第といったところです。
1年経って思うのは、自然の移り変わりを以前に比べて意識するようになったかなということです。365日を四等分して季節とし、さらに初、盛、晩を付けても十二区分しかありませんが、時々刻々、自然は移り変わっていくものなのですね。人間もそうなんだなぁと思います。
そんな感じで、これからも続けていくと思いますので、お付き合いいただければ幸いです。
ぐじゅぐじゅと梅雨呑みこんで破れ靴
「パパ、映画どうだった?」
「うーん、すごく面白かったわけじゃないけど、退屈はしなかったよ」
「ふーん。パパの答えはいつも普通」
「りなは厳しいね」
「だって、りな、女だもん」
あんまりウケたので、りなちゃんのママにことわって、載せさせていただきました。こんなこと言われたら、パパもかたなしでしょう。りなちゃんは小学1年生。
ぼうふらが眼を閉づ甕の水静か
先日、出版の打ち合わせのために来社されたMさんは、日本で出版された『ガリバー旅行記』を、古いものから新しいものまで約400冊持っているそうです。高いものは1冊50万円もしたそうで、その値段は、原書の初版にも匹敵するとか。すごいですねぇ。
Mさんはまた蔵書票の趣味がおありで、ガリバーをモチーフにした蔵書票をたくさんお持ちです。
蔵書票というのは、本の表紙や見返しなどに貼り付けて、その所蔵者を示すための小さなカードみたいなものですが、これにはこれの独自の世界があり、もともと書物に貼るという蔵書票ですが、今は小版画作品としてコレクションの対象となっているらしく、<紙の宝石>とも呼ばれているそうです。
ご持参いただいた蔵書票を拝見しながら、これからのブックデザインは蔵書票化する、いや、蔵書票化しなければいけないということを感じました。
蔵書票というのは、本を愛する人が、画家や版画家に特別に頼んで自分だけのオリジナルのものを作ってもらいます。蔵書票の作者は、依頼主の意を汲んで、中身に相応しい、いやもっと、中身を端的に「かたち」にします。そこで腕が試されます。依頼主と作者の関係もあります。そうして出来てくる蔵書票ですが、作者によって、独特の世界が展開されます。同じガリバーでも、まったくちがったガリバーになります。
わたしは、創業以来、ブックデザインは一つの演出だと思ってきました。中身に相応しい、中身を際立たせるための、しかし第1はやはり中身、と思ってきました。
しかし、先日、ガリバーの素晴らしい<紙の宝石>たちを目にし、少し考えが変わりつつあります。それはどういうことかというと、誤解を恐れずに言えば、本の中身と関係なく、はマズイですが、本の中身を踏まえつつ、なおかつ、中身を超えていいのではということです。
中身を一つの「かたち」にしてしまう。中身をぐっとしぼって抽出したもの、でなく、中身をもっと広い世界に解き放つ…。同じ「かたち」でも、「形」でなく「容」。新しいぶどう酒は新しい革袋に、です。読みの深さがますます問われます。
まだ考えが煮えきらず、生煮えですが、社員や多聞くんとも話し合いながら、さらに新しい本の「かたち」を探っていきたいと思います。