むふふふふ

 

・うとうとと車中仮眠の冬日かな

ついに発売!
こんなに待ったのは、
学生時代、
好きだったスティーヴィー・ワンダーの
新譜発売を待った日々以来でしょう。
原題:3 idiots
日本語タイトル:きっと、うまくいく
DVDがようやく発売され、
きのうさっそく
アマゾンから送られてきました。
しかも、
予約したときの価格から値下がりしたので、
360円を引いてとのメールが届き、
アマゾンなかなかやりおると、
それはそれで感動した次第。
りなちゃ~ん、
ひかりちゃ~ん、
これでいつでも観れるぞ~!!
これまで10回を超えて観た映画は、
傑作アニメ『銀河鉄道の夜』と
フェデリコ・フェリーニ監督の『道』でしたが、
ふたつの記録を
楽々飛び越えること間違いなし。
だって、
映画館ですでに五回も観ているから。
何度観ても、
いいものはいい!
学習院大学でフランス文学を専攻しておられる
中条先生に教えたところ、
先生も嵌ったらしく、
雑誌に映画評まで書いたといいますから
驚きました。
この年末年始、
何度観ることになるでしょう。
急にパ~ッと薔薇が咲いたような、
フローラルブーケの香りが漂ってきそうな、
そんな感じ、
そんな気分なんでございます。

・用足して熱を奪われ震ひをり  野衾

夢に幹郎さん

 

・三日にてワンツースリーの師走かな

夢に詩人の
佐々木幹郎さんが登場しました。
あ。幹郎さん。
もうイベントは始まっているのに、
幹郎さん、
ぜんぜん慌てる様子がありません。
階段の
途中カーブする
立派な手すりに跨り、
すべって遊んだりしています。
近づいて、幹郎さん!
いいのいいの。
いいのいいのって。
幹郎さん、
だんだん若くなっていくようです。
スリムにもなって。
メルモか。
と、
幹郎さん、
緑色の分厚い一冊の本に入り、
大きく息を吸ったり吐いたりしています。
そのたびに、
本がぶわーっと膨れたり、
身を細めたフクロウみたいになったりし、
なんだかとっても楽しそう!
なんだかとっても嬉しそう!
ときどきちょっぴり寂しそう。
その本はもともと
デーヴァナーガリーで書かれた
『ラーマーヤナ』で、
わたしは
その字を読めないけれど、
そんなふうに遊べるなら、
一冊なんとか欲しいものだと思い、
その辺にいるインド人に聞いたら、
とっても高価なもので
日本円で一冊百万円もするという。
それを持つことは
一家にとって
代々家宝になるという代物。
そこまで言われたら
なにがなんでもぜったいに欲しい!
口角泡をふき、
値段の交渉をつづけているうちに、
ラーマーヤナの幹郎さんの姿が見えず。
本になったまま
イベント会場に行ったかな。

・月替り刻々迫る賀状書き  野衾

ジョセフ・クーデルカ展

 

・カレンダー剥ぎて息吐く師走かな

あんたがそうくるんだったら、
おれはクーデルカ、
こう出るか、
なんてことを口の端にのぼせつつ。
竹橋の東京国立近代美術館へ。
ジョセフ・クーデルカは、
チェコスロバキア出身の写真家。
一九三八年生まれ。
知らない写真家でしたが、
新聞に出ていた馬と男の写真を見、
一発でやられました。
この人にかぎらず、
すぐれた写真家の写真を見、
もたげてくるのは、
猛烈な嫉妬のこころ。
国がちがい
時代がちがっているからといって、
酸っぱい葡萄で済ませるわけにはゆかぬ。
なぜそう撮るのか、
なぜあなたにはそう見えたか、
そこが気になり始めると、
見ないわけにはゆきません。
わたしの数メートル前を、
白地に赤い模様の入ったワンピースの女性が居、
わたしが、
一枚の写真からつぎの写真へ移るや、
彼女も数枚先からさらにつぎへと移動し、
それがほぼ平行移動で、
追い越すわけにもゆかず、
その女性が
これらの写真をどう見ているかも
気になり始め…。
それもこれも体験で、
生きられる時間で、
これから
この写真家の写真を
何度も見ることになるでしょう。
見て好きになるでしょう。
たとえば下の写真はすぐに、
ポーランドの演出家イェジュイ・グロトフスキの、
『実験演劇論―持たざる演劇めざして』
を連想させ、
またある一枚は、
妖しきドアーズの
「Strange Days」を連想させたのでした。
五感を超え、
時間を感覚するまであと一歩、
すばらしい写真展でした。

・音なくて実の音在り冬日かな  野衾

脳刺激

 

・天園の紅葉かつ散る峠かな

代理店を通じて去年の秋注文し、
春に入荷したホワイツの靴を、
きのう初めて履きました。
書き初めならぬ
履き初め
歩き初め。
ワークブーツのため
靴底が硬く
しっかりしているので、
歩くごとに踵から脊髄を通って
コツコツ、
脳までそれが
ずんと響いてきます。
はは~。
ふだんあまり感じませんが、
下ろしたてなので、
もろもろ
新鮮に感じられたのでしょう。
中学高校の理科で
生物発生について習いましたが、
たしか
脊髄と脳は
同時にできてくる
のではなかったでしょうか。
受精卵が分割を繰り返し、
さまざまな器官が
爪楊枝で刺したときの
まりも羊羹のごとくに
つぎつぎ現れる生命の不思議。
何度見ても不思議。
妙。
奇天烈。
目が離せない。
あんなに面白いものは
滅多にあるものではない。
交通の便がよくなり
歩くことをあまりしなくなった現代人と
ひたすら歩いた
むかしの人とでは、
考えた結果もさることながら、
考える過程が
そもそも違っていたのではないか、
なんてことを
歩きながら考えました。

・耳澄まし道履む秋の深きかな  野衾

父との会話

 

・秋深し沈黙の空明けにけり

「もーしー。おみゃ、25、誕生日だったべ」
「んだ」
「んだべ。25がおみゃ、26がおやじ、28がしゅん」
25日がわたしの、
26日が九十八歳で他界した祖父の、
28日が甥っ子の誕生日。
父はそのことを電話で言ったのでした。
「わすいであったよ。ゴメンな」
「ええって。ええって」
「25になったったが?」
「25でにゃ。ごじゅうろぐだ」
「あ、んだが。ごじゅうろぐが」
「あや」
あや、とは「そうだ」の意。
「ごじゅうごだべ?」
「んでにゃて。ごじゅうろぐだて」
んでにゃ、は「そうでない」の意。
「んだが。にじゅうごにぢでごじゅうろぐが」
「あや。にじゅうごにぢでごじゅうろぐだて」
「んだべ」
んだべ、は「そうだろ」の意。
「んだべって。おみゃが、ごじゅうごってまぢがったんだべ」
「んだてが」
「んだよ」
秋田県以外の方には、
ほとんど外国語のように思えるかもしれませんが、
十一月のこの時期、
誕生日が立て込み、
25日がわたし、
26日が祖父、
28日が甥っ子。
しかも、
25日にわたしは
55歳から56歳になるというわけで、
5と6が
日にちと歳で錯綜し、
なんだかややこしい。
わたしだって数字を間違える今日このごろ、
八十を過ぎた父が間違えるのは当然。
ええって。ええって。
ちなみに
「ええって。ええって」は、
いいよ、いいよ。

・紙敷いて窓下寝釈迦の小春かな  野衾

これを書いたら

 

・言の葉の色を増したり秋の暮れ

朝起きて歯をみがき、
パソコンに向かってこれを書いたら、
コーヒーを淹れます。
このごろは
挽いた豆の皮を飛ばす技をおぼえ、
またその技に
みがきがかかり、
一杯のコーヒーが
ますます甘く
美味しく感じられます。
アルコールランプで熱せられたお湯が
フラスコからゆっくりと上昇し、
上がりきる前に
竹べらで左に二回、
すべてロートに上がったら
右に五回まわし待つこと七十秒、
アルコールランプを外して炎に蓋をします。
コーヒーがゆっくり下降しはじめ、
たちっ、たちっ、たちっ。
フラスコ内の透明な
コーヒーの面が安定したら、
あたためておいたコーヒーカップにコーヒーを注ぎ、
まず一口。
もう一口。
ああ。
至福の時間。
朝日はまだ昇ってきません。
*
写真は、まるちゃん提供。

・我もまた此の道を行く紅葉かな  野衾

プラスαマイナスα

 

・もみつるや季節を漉して風渡る

わたくし、
きのうで満五十六歳になりました。
今年入社した新卒の女性の誕生日がわたしと同じで、
彼女はきのうで二十三。
このちがい!
二十三を倍にしてもまだ四十六。
嗚呼。
ところで、
この五十六という数字、
なかなか微妙です。
五十五歳というのは、
わたしとしては、
五十二プラスαぐらいの感覚でしかなかった。
ところが、
五十六歳となると、
還暦の看板が見えたりして、
どうしても
六十マイナスαみたいな気になってしまう。
もはやおおっぴらに
バカができなくなってしまう。
(やると思うけど)
ということで、
五十六を噛みしめた一日でした。
五十六って、
ごじゅうろくだけど、
いそろくとも読める。
山本五十六。
第26、27代連合艦隊司令長官。
関係ないか。
ふ~。
五十六と思わずに、
五×六=三〇(ごろくさんじゅう)
ということで、
三十歳ぐらいのつもりでいくか。
誕生日にはいつも、
秋田の父から
「きょう、おめのたんじょうびだなぁ」
と電話があるのに、
今回はなかったなぁ。
ま、いっか。

・黙しつつ友と踏み踏む秋の道  野衾