こしらえもの

 

・炎天下鎌倉小町いらつしゃい

図書新聞に拙著『マハーヴァギナまたは巫山の夢』の
書評が掲載されました。
コチラです。
これで四紙誌に取り上げられたことになりますが、
とても勉強になりました。
ありがたいことです。
一九九二年に始まった
創作学校の一期生として門を叩いて以来、
小説とは何か、
表現とは何かをずっと考え、
安原顯さんへのご恩に報いるためにもと願い書いたものが、
このように専門の方々から
ありがたいコメントをいただき嬉しく思います。
小説はいわば「こしらえもの」。
しかし、
「こしらえもの」によってしか
伝わらないものもあります。
今度の震災は、
そのことをも気づかせてくれました。
拙著はともかく、
「こしらえもの」の詩と美と力に触れ生かされる、
それが古典といっていいでしょう。
その意味で、
源氏物語と泉鏡花は、
わたしにとって大きな発見でした。
「表現行為とは時に、
それに触れるや発狂するやもしれぬ猛毒である」とは、
恩師・安原顯さんの名言ですが、
猛毒はまた
処方のされかた次第で良薬にもなり得ます。
この世の欺瞞と偽善を剥がし
打破するのは、
いつの世も、
真実がこもった古典に如くものはない気がします。

・女連れ俄か写真家徘徊す  野衾

ゴリラのチュー

 

・山道や蛇のこゑより艸のこゑ

いつものように朝四時に起き、
窓を開けたら、
暗い空を青い雲が流れていきます。
パソコンを立ち上げてから数十分経っているのに、
雲を眺めて飽きもせず
呆けておりました。
あ。
ゴリラの親子みたい!
右が親ゴリラ、
父でしょうか母でしょうか。
左が子どものゴリラ。
父か母かのゴリラが
子どものゴリラにチューをしました。
砂でつくった動物が
波にさらわれていくように、
雲のゴリラは
すぐに風にさらわれていきました。
一瞬巨大なボスゴリラが現れ、
ゴリラの親子を追いかけるような気配を見せましたが、
これもすぐに消え平らになりました。

・鎌倉や珈琲店の眠さかな  野衾

きゃりーぱみゅぱみゅ

 

・夏の葉や裏も表も見せて落つ

へー、このごろはこんな娘が流行ってるんだぁ
と、
あまり気にも留めずに見ていたのですが、
「インベーダーインベーダー」を耳にした瞬間、
一発でやられてしまいました。
椎名林檎の「本能」以来かもしれません。
それでさっそく
『なんだこれくしょん』を買いまして、
ただいまこれが私の宝物でございます。
小学五年生の義理の姪っ娘が
たまたまきゃりーぱみゅぱみゅの大ファンで、
夏休みを利用し
愛西市から遊びにきているのですが、
保土ヶ谷の我が家に到着した日、
CDをかけた瞬間、
電流が走ったようにぴょんぴょん踊りだしました。
それが隙間なく
完璧にこなしていきます。
普段クラシックダンスを習っているせいか、
ポイントポイントをかちりと決めてくれます。
口をあけて見とれつつ、
小学生から
わたしのような初老のおじさんまで
熱狂させるのですから、
流行るわけだと思いました。

・天園にぶんぶと蜂ら祭りをり  野衾

ファーブルの未来予測

 

・目でも読み耳楽します蝉の声

ファーブル先生は、
またこんなことも言っています。
*
未来をもっと先まで進んでみよう。進歩に進歩を重ねて人間はいつか文明と呼ぶものの過剰のために殺されて斃(たお)れるであろう日がいつか来るようにどう見ても思える。神様ぶるにあまりに熱心である人間は、虫の悠久な長命を望むことはできない。人間がやがて滅んだ時でもあのちいさなひきがえるは、やぶきり、このはずくその他と一緒にその連禱(れんとう)をいつまでも誦(とな)えていることであろう。彼らはこの遊星上で我々より以前から歌っていたのだ。彼らは我々の亡き後、不動なるもの、太陽の赫灼(かくしゃく)たる栄光をことほぎながら歌いつづけるであろう。
*
連禱というのは聞きなれないことばですが、
大辞林によれば、
「カトリック教会の礼拝で、
司式者と会衆とが交互にかわす連続の祈り」
とあります。
ファーブルは、
虫たちの鳴く声を連禱と聴き、
何千年何万年の遥か先に思いを馳せていたのでしょう。
ファーブルの遺言のようにも思えます。
仕事の帰り、
保土ヶ谷の小さな公園の横を通り過ぎます。
蝉たちがわんわと鳴き交していました。
ちょうど階段を上り終えたころ、
ドドーンと鳴って振り返ればただの宙。
そうか。
始まったのか。
きょうは花火の日だった。
少し待って次の花火が打ち上がるのを待ちます。
紅いきれいな花びらがパッと散り、
それからドドーン。
蝉たちの声は止みません。

・炎天下忙中閑の御香焚く  野衾

きりぎりす

 

・まとはりて振り向く空の夏の蝶

通勤途中の電車内で読む本は、
岩波文庫の『ファーブル昆虫記』
全部で十冊あり、
ただいま六冊目ですから、
年内中はかかってしまいそうです。
ファーブル先生がライフワークとして書いたもので、
ゆっくり悠々たる書きっぷりですから、
こちらもそれに合わせてゆっくりゆっくり。
急ぐな急ぐなよ、です。
さて、
きのうの朝読んだところに
こんなことが書いてありました。
*
きりぎりす類の発音器はなんの役に立つのか。私は相手を迎える時になんの役目も持たないとか、聞く方の雌にも心楽しい口説(くぜつ)の囁きをしないとか断定するつもりはない。
それは自明の証拠に逆らうことになろう。しかしその根本的な役割はそんなところにあるのではない。何よりもまず虫がそれに託しているのは生きる歓びを語ることだ。腹はくちいし、背中はお陽さまに暖めてもらっている生の楽しさを歌うためだ。証拠は太いからふとぎすとやぶきりの雄だ。婚礼がめでたく済み、二度と役に立たぬほど衰え、もう恋人など振り向く元気もないのに、弾く力が失せるまで楽しげに弦を弾きつづけている。
*
ファイト一発、
さあ、きょうもがんばろう! という気になりました。

・アブラゼミ腹がらんどうの響きあり  野衾

切手収集

 

・七月もけふで終りになりにけり

ムージルの『特性のない男』を読んでいたら、
切手収集が実にすばらしい趣味である
ことを力説する
ちょっと変わった男が登場してきました。
文化を知るによく、
だけでなく、
貴重なものは高値で取り引きされるので、
おカネの無駄遣いにならないどころか、
むしろおカネが溜まることになる、
まさに一挙両得。
ま、
それはそうでしょう。
しばしわたしの眼は頁から離れ、
記憶の翼は遠く小学時代へと翔ていきます。
きっかけは、
なんだったかなぁ。
葹田(なもみだ)に家のある
同級生K君が集めていた
切手のアルバムを見せてもらったんじゃなかったかなぁ。
K君じゃなかったのかなぁ。
それともほかの友だち?
分かりません。忘れました。
が、
一時期、
相当熱心に集め、
それ用のアルバムを購入し、
一枚一枚セロファンのポケットにきれいに収め
悦に入って眺めていたことは確かです。
切手でも何でもそうなんでしょうが、
集め始めると、
だんだんその世界に嵌り
分かってきて、
そうすると、
欲しいなあというものが現れます。
人間、死にたくなったら、
なんでもいいから集めてみなさい、
しばし死の欲求からまぬがれる、
みたいなことを言った人がいましたが、
たしかに、
死にたいと思っている人が
何かを一生懸命集めているなんて聞いたこと
ないし、
何か特定のものを集めている人が
死にたいといっても、
いかにもリアリティがありません。
それはともかく。
切手を熱心に集めていた小学時代、
「写楽」だとか「見返り美人」だとか
「国際文通週間」のシリーズものだとか、
欲しかった。とっても。
小学生の小遣いじゃ買えないものばかり。
あんなに
狂熱の恋のように
目を輝かせ(たぶん)て集めていたのに、
何がきっかけでそうなったのか、
まさに憑き物が落ちたように、
いつしかぱったりと止めてしまいました。
以後、
一切興味を失ったまま今に至っています。
この文章を書くのに、
ネットで画像検索しましたが、
かすかに
かつての疼きを思い出しました。

・アブラゼミつまんで放って飛んでった  野衾

鏡花小説の女

 

・未生前蝉鳴かずして蝉しぐれ

泉鏡花の小説に登場する女性が
独特の魅力をたたえていることは、
多くの人の論じるところですが、
山形出身の評論家で、
高山樗牛の実弟・斎藤野の人という
変った名前(本名は斎藤信策)の評論家がいまして、
兄弟して若くして亡くなっていますが
(兄は三十一歳、弟は三十二歳)
二人とも頭がよく、
共に東京帝国大学を卒業し、
兄は東大の講師まで務めたといいますから大したものです。
さて弟の斎藤野の人の文章に
「泉鏡花とロマンチク」というのがあり、
そこに、
「鏡花の愛情とは、母の慕はしさと、
姉の懐かしさと更に女の恋しさに依りて成立する。
あゝ之を愛と呼ぶも未だしである、恋と呼ぶも猶及ばずである。
この哀憐の心持ちを何と呼ぶか、
予は固より適切の文字を知らぬ、
恐らくは日本にはまだ無いのであらう。
西洋の辞書にも無論なからう。」
とあります。
「母の慕はしさと姉の懐かしさと女の恋しさ」
その三つがあってはじめて
鏡花小説の女が成立することは、
小説を読めばよくわかります。
「母の慕はしさと姉の懐かしさと女の恋しさ」
なるほどと腑に落ちました。
女性といいたくない。
女、おんなといいたい。
母・鈴が二十九歳で亡くなったとき
鏡花まだ九歳。
理想の女のかたちが幼心に決まったのでしょう。

・寄生虫の被り物して帰省中  野衾