成瀬仁蔵と柳敬助

 

日本女子大学の創設者として著名なキリスト者・成瀬仁蔵が
洋画家の柳敬助と親交があったことを初めて知りました。
成瀬が、
学生たちへの講義のために、
ある本の挿絵を大きく描いてほしい旨を柳に頼みに行った、
というエピソードが、
『宮沢賢治 妹トシの拓いた道――「銀河鉄道の夜」へむかって』
に記されていました。
この本は、
タイトルにあるとおり、
宮沢賢治が、
愛する妹を通して、
いかにキリスト教に接近していったかを説いた書ですが、
賢治と新井奥邃をつなぐ見えない糸についても、
ふかく考えさせられました。
柳は、
奥邃の謙和舎に足しげく通っており、
高村光太郎に奥邃を紹介した人物でもあります。
わたしは、
一九二三年に亡くなっている柳敬助を、直接知っているわけではありませんが、
柳のご子息・文治郎さんには何度かお目にかかったことがあり、
文治郎さんから、
ご自宅で新井奥邃の名がでるときに、
家のなかが独特の空気に包まれたということを、
興味深くうかがったことがあります。
文治郎さんはまた、
新井奥邃先生記念会の幹事を務められました。
奇しくも、
宮沢トシが亡くなったのが一九二二年、
新井奥邃が亡くなった年と同じ、
ちょうど百年前になります。

 

・土器拾ふ遥かここまで探梅行  野衾

 

破壊力抜群

 

おとといときのう、予定していた本を読み切り充実した時間を過ごしましたが、
少々アタマが疲れてきたなと感じましたから、
きのうの夕刻、
半分ほど読んで止めていた
中崎タツヤの『完全版 男の生活』(白泉社、2004年)を手に取った。
マンガです。
そうか。
一度ここで取り上げたことがありましたね。
中条さんのいうとおり、
そのあまりのショーモナさは抜群
で、
読み切るまでに五度ほど、
声を出して笑った。
わたしのなかのショーモナさに共振するのでしょう。
家人は出かけていましたので、
ひとり大声で笑い、
そして、
やがて悲しきタツヤかな。
この人、天才!
五度ほど笑ったなかから、
ひとつだけ、
文字のみでどれだけ伝わるか分かりませんけれど、
紹介したいと思います。
タイトル「不器用な俺」
サブタイトル「昨日の晩、考えてたのになぁ…。」
なお(  )はわたしの説明です。

 

(一本の木立の下、どうやら男女の別れの場面)
女:遊びだったのね
男:(女に背中を向けたまま)バカなことを言うな
(次のコマ、男はくるりと振り向き)遊びで女とつきあえるほど器用じゃないぜ
女:それじゃ私達の一年は何だったの
男:(また背中を見せながら)どうとってくれてもかまわない
(次のコマ、ふたたびくるりと振り向き)しかし!! これだけは忘れないでくれ
(その次のコマは、男と女が木立の前でじっと見つめ合う)
(さらに次のコマ)女:何を忘れるなって言いたいの?
男:…………
女:忘れたのね
男:……うん

 

あげればもっとあるけれど、
ガマンして一つだけにしておきます。
にしても。
このマンガを知ったのは、
中条省平さんの『マンガの教養』
でした。
あの飄々とした中条さん、
どんなお顔で『完全版 男の生活』を読んだんだろー、なんて想像すると、
それはそれで面白く、
静かな笑いに浸ります。

 

・夜半無言の里に雪積もるらむ  野衾

 

雪の富士と軽業師

 

二か月に一回の定期検診を終えて一八〇段
(一八一段だったかもしれません。登りはじめ最初の一段を忘れたかもしれず)
ある階段を登りおえ、遥かに北西を見やれば、
白々と輝く富士山が、澄み切った青空のもと荘厳なる姿を聳えさせています。
思わず、ほ~、と。
気分が変り、
今度は丘のてっぺんから階段を少し下って右へ下りると、
高い木の枝枝のあいだを何やら素早く動くものの影。
台湾栗鼠が二匹、追いかけっこだ。
入り組む枝をものともせず、
枝と枝の間をジャンプする姿は、
ジャンプというより、
空間に見えない枝がつながっているかのごとく、空中をすべっていく。
またまた、ほ~。
気分すっかり快晴快調。

 

・見送りの父母淡き肩に雪  野衾

 

予表と顕現

 

また、キリストが預言によって自らの受難の屈辱について語っている、
あの詩篇においても同様である。
「彼らはわたしの手と足を刺し貫き、わたしの骨をすべて数える。
彼らは目をとめて、わたしを見つめる」。
(これらの言葉によって、彼は、手と足を刺し貫かれ、釘でうちつけられて、
十字架上にひろげられた身体のこと、
および目をとめ見つめる者たちの見世物になったことを表現しているのである。)
彼はさらに付け加えている。
「彼らはわたしの衣服を分けあい、わたしの着物のことでくじを引く」。
これらの預言がどのように成就したかは、
福音書が物語っている。
(アウグスティヌス[著]金子晴勇ほか[訳]『神の国 下』教文館、2014年、p.233)

 

引用した文中の「彼」とは、
旧約聖書にでてくる預言者ダビデのこと。
アウグスティヌスが引用しているこの驚くべき箇所は、
詩篇第二二篇にあり、
新約聖書において記述される十字架上のイエス・キリストそのままだ。
ダビデは、紀元前1000年のころの人。
こういう事例を引きながら、
アウグスティヌスは、
旧約聖書では覆われている真理が、新約聖書で顕現しているとみているのでしょう。
旧約聖書では、
真理は覆われているけれど、
人間がそれを知るために、
預言者にあずけられた神の言葉として、
予表(あらかじめ表す)されている。
ここに、
アウグスティヌスの歴史の見方、
大いなる歴史哲学があると考えられます。

 

・餅食ふて網に残りの黒きかな  野衾

 

入稿今昔

 

弊社の仕事始めは先週六日の木曜日。
ようやく体と頭が仕事モードになってきたかと思いきや、
担当している本の入稿がきのう。
昔は、
版下と称ばれる紙を印刷所の担当者へ手渡したり、送ったりしたものですが、
今は、
InDesignで組んだデータをPDF化し、
それを送る。
送るといっても、物でないから、
郵送したり、宅配便に載せるわけではない。
昭和生まれの人間としては、当初、すこぶる戸惑いがありました。
が、
時のなせる業か、
いつの間にやら、あたりまえな気になっています。
とは言い条、
入稿前の緊張は、昔も今も、変らずにMAX。
強がりかもわかりませんが、
これがあるから、
出来上がった本を見るときの喜びはまた一入。
ことしも、これを何度か体感、経験することになるでしょう。

 

・ふるさとは天地びりりの淑気かな  野衾

 

人間の心は

 

すべてのことを記すのは長すぎるが、さまざまのことが起きる中に、
アブラハムはほかならぬ最愛の子イサクをささげる
という試みに会わされることになる。
それは彼の信仰に満ちた従順が良しと認められ、
それが神にではなく、
世の人々に知られるためであった。
それゆえ試みはすべて非難されるべきではなく、
それによって良しと認められるような試みは喜ぶべきものですらある。
たいていの場合、
人間の心は、
自分自身には知られない。
ただ、
その力を何らかの仕方で自分自身に問いただす試みに会って、
言葉ではなく
実際の行ないによって答える時にわかるのである。
そのとき、
人の心が神の恵みを認めるなら、
心は敬虔になり、
恩恵の確かさに堅く立って、空しい誇りにふくれ上がることはない。
確かにアブラハムは、
神が人間の犠牲を喜ばれるとは決して信じなかった。
しかし鳴りひびく神の命令に対しては、
人間は服従すべきであって、
言い争うべきではない。
(アウグスティヌス[著]金子晴勇ほか[訳]『神の国 下』教文館、2014年、p.173)

 

大学に入学して、いくつかの授業をとったなかに、
英語講読というものがあり、
担当は、車田先生。
最初の授業だったと記憶しているが、
日曜日に自宅で聖書を読む集いを行っているから、
興味のある方はどうぞ、
という案内があった。
高校生になってから怒濤のように始まった読書生活
にあって、
おもしろく読んだ本の核には聖書があると見定めていたので、
日曜日にいそいそと、
車田先生のご自宅を訪問した。
聖書を読み、
参加した学生たちが自由に発言する。
あれは、初めての訪問だったか、何度目かのときだったか。
聖書のどの箇所を読み、
どういう発言がなされ、わたしが何を話したか、
すっかり忘れてしまったけれど、
わたしの発言の後に、
先生が、
三浦さんは、経験を通して聖書を学んでいかれる人なんでしょうね、
という趣旨の話をされた。
正確なことばを忘れてしまったが、
わたしの記憶では、そういうことになっている。
先生のそのことばを、
当時の私は、
どちらかといえば、
わたしに対する批判が含まれていると捉えてしまい、
先生の集いに来て聖書を勉強しても、
あまり意味がないと、やんわり諭された気がし、
短気なわたしは、
そうか。
だったらいいや。
それを最後に、わたしは、その集いに参加しなくなった。
しかし、
そのことが、
その後、幾度も思い出され、いままた記憶の底から浮上してくる。
先生の言葉の主旨、意図は、何だったのか。
確かめたい。
先生は今どうされているだろう。
インターネットで検索しても、
これがあの先生だ、と思われる方はヒットしない。
けれど、
車田という姓で調べると、
1887年に生まれた牧師で車田秋次という方がおられる。1987年に亡くなっている。
車田という姓は、それほど多くなく、
キリスト教つながりということで、
わたしが教わった車田先生と、牧師の車田秋次とは、
なにか関係がありはしないか。
車田先生に言われた言葉を読み解くヒントがあるかもしれない。
『車田秋次全集』全7冊が古書で出ているのを知ったので、
さっそく注文した。
『神の国』再読は、
意外なところへわたしを引いていくようだ。

 

・年賀状思ひ出せずの名を睨む  野衾

 

心象スケッチ

 

これにつけ加えたいと思うのは、この心配の神秘的な側面についてなのだ。
人が自分ひとりとり残されているのではなくて、
宇宙の中の何ものかととり残されているということ。
私の深い憂愁、デプレッション、退屈、
または何であろうと、
それのただ中で私を恐れさせ、また興奮させるのはこれなのだ。
〈或る魚の〉ヒレが遠くを通っているのがみえる。
私の言おうとするところをどんな心像《イメージ》で伝えることができるだろうか。
じっさいには何のイメージもないのだろう。
おもしろいことに、
今まで私のあらゆる感情や考えの中で、
このことにぶつかったことはないのだ。
人生は冷静に、正確に言って、この上もなく奇妙なものだ。
その中に現実の本質がある。
私はこのことを子供のときいつも感じたものだ
――水たまりの上を歩いてわたることができなかったことがある。
なんてふしぎだろう――
私は何なのか、
などと考えてわたれなかったことを思い出す。
(神谷美恵子[訳]『ヴァージニア・ウルフ著作集 8 ある作家の日記』みすず書房、
1976年、pp.143-4)

 

正月、しんしんと降る雪を窓外に眺めながら『ダロウェイ夫人』を読んだ
のをきっかけに、
その小説がとくべつな印象を与えてくれましたので、
流れで、
買ってそのままになっていた神谷美恵子訳の
『ある作家の日記』を、
まだ途中ですが、読んだ。
引用した、こんな箇所を読むと、
神谷さんの日本語が読み易いせいもあって、
よけいに、
ヴァージニア・ウルフのひととなりに触れられる気がし、
また、
この人となら、
友達になりたいと思わせられる。
引用した文中の〈  〉は、訳者による注。《  》はルビ。

 

・去年今年乗せて車窓の雲流る  野衾