心象スケッチ

 

これにつけ加えたいと思うのは、この心配の神秘的な側面についてなのだ。
人が自分ひとりとり残されているのではなくて、
宇宙の中の何ものかととり残されているということ。
私の深い憂愁、デプレッション、退屈、
または何であろうと、
それのただ中で私を恐れさせ、また興奮させるのはこれなのだ。
〈或る魚の〉ヒレが遠くを通っているのがみえる。
私の言おうとするところをどんな心像《イメージ》で伝えることができるだろうか。
じっさいには何のイメージもないのだろう。
おもしろいことに、
今まで私のあらゆる感情や考えの中で、
このことにぶつかったことはないのだ。
人生は冷静に、正確に言って、この上もなく奇妙なものだ。
その中に現実の本質がある。
私はこのことを子供のときいつも感じたものだ
――水たまりの上を歩いてわたることができなかったことがある。
なんてふしぎだろう――
私は何なのか、
などと考えてわたれなかったことを思い出す。
(神谷美恵子[訳]『ヴァージニア・ウルフ著作集 8 ある作家の日記』みすず書房、
1976年、pp.143-4)

 

正月、しんしんと降る雪を窓外に眺めながら『ダロウェイ夫人』を読んだ
のをきっかけに、
その小説がとくべつな印象を与えてくれましたので、
流れで、
買ってそのままになっていた神谷美恵子訳の
『ある作家の日記』を、
まだ途中ですが、読んだ。
引用した、こんな箇所を読むと、
神谷さんの日本語が読み易いせいもあって、
よけいに、
ヴァージニア・ウルフのひととなりに触れられる気がし、
また、
この人となら、
友達になりたいと思わせられる。
引用した文中の〈  〉は、訳者による注。《  》はルビ。

 

・去年今年乗せて車窓の雲流る  野衾

 

朝の音

 

夜中に目が覚め、トイレで用を足して電気毛布がセットされた布団にもどり、
時刻を確かめた。三時三十五分。
もう少し寝ていよう。
しばらくすると、
隣で寝ていた妻が「いまの、なに?」
「え!?」
「ピー、ピー、ピー、ピー、て」
「聴こえないよ」
「いや。聴こえたよ」
「空耳じゃないの?」
「いや。ぜったい聴こえた」
妻は、布団から抜けだし、綿入れを着込んで居間の方へ向かう。
わたしは目を開けたまま、
布団の中でしばらくじっとしていた。
ほどなく妻が戻ってきて、
「ストーブのスイッチは切ってあったし、台所も異常なかった」
「そう」
安心した妻は、布団にもぐり、また眠るようであった。
体内時計が起床時刻を知らせたので、
わたしは静かに起き出した。
ダウンジャケットと綿入れを着込み、居間に行き、ストーブのスイッチを入れる。
柱時計は、四時二十五分。
横浜から持参した文庫本を手に取り、
ストーブの火の隣で、つづきの文を追いかける。
火の音とページを繰る音だけが部屋を照らす。
奥の部屋でがさごそ音がする。
もうそんな時刻か。
と。
畳を踏む音が近づいてくる。
「おはよう」
「おはよう」
「新聞、取ってくるがらな」
母の朝が始まる。
腰を曲げながら戻ってきた母が、
「ゆぎ(雪)そんだに降ってなぐて、えがた(よかった)」
母は、新聞をソファの下に置き、朝餉の支度へと台所へ向かう。
間もなく妻が起きてきて台所へ行き、
「おはよう」
「おはよう。まだねでれば(寝ていれば)えがた(よかった)のに」と母。
六時ちょうどになり、
今度は、どすどすと音がして「おはよう」父だ。
六時半。町の有線放送が流れる。それから四人そろっての朝ごはん。
食事を終え片付けが済んだら、
つぎはクスリ。
「父さん、クスリ飲んだが?」母の声は甲高い。
「はいよ。いま、飲むどごだ」
ひとことひとことが、ありがたく、なつかしく、心地よい。
居間のストーブに四人が集まる。
父が、やおら新聞を広げ、顔を近づけて読みだした。
その姿を見ていて、
閃いた。
「新聞、だれ、持ってくるの?」
「わがらにゃでゃ(わからないよ)」
「あんで(歩いて)くばて(配って)来るのが?」
「なもや(そうではない)。クルマで来るたでゃ。軽トラだびょん(軽トラックだろう)」
わたしの実家は、
バス通りから少し引っ込んでおり、
ゆるい下り坂になっている。
新聞を配達しに来た軽トラックと思われるクルマは、
発進のことを考え、
おそらく、
ギアをバックの状態にして玄関先へ入ってくるのだろう。
ピー、ピー、ピー、ピー、
は、
その音だったに違いない。
一日が始まる。一年が始まる。

弊社は、本日から通常営業となります。
よろしくお願い申し上げます。

 

・人事止み小暗き馬屋の淑気かな  野衾

 

野にある学術出版社

 

二〇二一年も、いよいよ押し迫ってまいりました。
弊社はただ今、
二十三期目の時を刻んでおります。
廿周年を期して冊子『春風と野』を作りましたが、
その頃から、
野ということを強く意識するようになり、
現在に至っています。
野は、
「の」でも悪くありませんが、
「や」と読み、また、「や」と読んでいただきたいと思います。
野生の「や」、野草の「や」、荒野の「や」、野人の「や」、在野の「や」を願い。
野蛮の「や」、粗野の「や」、野卑の「や」
はいけません。
ひと、もの、ことに対して、
ていねいでありたいと思います。
出版社は、
文字をあつかうことを生業としていますが、
文字に置き換えることのできない音が世界に充ちています。
先月末に刊行された『細野観光』という本に、
細野晴臣の蔵書がずらりと並べられており、
そのなかに、
J・E・ベーレントの『ナーダ・ブラフマー、世界は音』が入っていました。
文字に寄りかかり過ぎず、
世界の音に耳を澄ませたい。

弊社は、明日から明年一月五日まで、冬期休業とさせていただきます。
一月六日から通常営業となります。
よろしくお願い申し上げます。

 

・博労の炉がたりの語の多からず  野衾

 

聖霊と経験

 

聖霊という概念は、
われわれに対する神の働を説明しようとするものであると考えてよい。
具体的にいえば、
聖霊はキリストを信仰者にまで持ち運んで来る神である。
その意味において、
聖霊は父なる神と子なる神とから(フィリオクェ)発出した
と主張してきた西方教会の伝統は正しい。
東方教会は聖霊を父なる神からのみ発出したとする伝統に立っているのであるが、
キリストから発出したものとして考える西方の伝統に立つ三位一体論
の思惟の方が、
いわゆる自然神学を拒否する方向を示しているものであるといえよう。
聖霊が父なる神および子なる神とその本質を同じくし、
三者が一体であるとの三位一体論は
出来上った形態ではもちろん新約聖書の中に存在していなかった。
しかし、
救の信仰経験が父なる神・子なる神・聖霊なる神を
その働きにおいては異ったものとして経験しつつも、
同じ一なる神の信仰者との出合いであるとする経験は、
新約聖書の叙述する信仰経験に内在しているといえよう。
これが必然的に論理化されたものが、
聖霊を神として告白することを含んでいる、あの三位一体論である。
しかし、
このような聖霊についての告白が、聖霊を思弁の対象にしてしまい、
自己の信仰的経験から遊離した思索に転落するならば、
それは新約聖書の聖霊経験とは異ったものである。
(「聖霊」の項、野呂芳男[執筆]『キリスト教大事典 改訂新版』教文館、1985年、p.638)

 

『随想 西田哲学から聖霊神学』を弊社から上梓した小野寺功先生は、
この本以外の著作においても、
くり返しご本人の経験を書いておられる。
ふつうならば、
とくに学術書となれば、
くり返しを避け、
既刊の書籍を指示する形をとるのが作法かもしれない。
ところが、
小野寺先生の著作物においては、
先生の経験(信仰的経験)が記述の底に厳然としてあり、というか、
地下水のごとく流れており、
それが最大の魅力であると感じられる。
『キリスト教大事典 改訂新版』の「聖霊」の項を担当執筆された野呂芳男氏は、
キリスト教神学者、牧師であり、
キリスト教の土着化についても深く思索を重ねたというから、
聖霊についてのとらえ方が、
小野寺先生と近く感じられるは当然かもしれない。
父なる神、子なる神は指呼できても、
聖霊は、
これと指呼できないところに難しさがある。

 

・炉語りに耳を澄ませば馬のこと  野衾

 

アウグスティヌス讃

 

理性のない動物には、与えられた境遇を思いめぐらすことはできないが、
その動物でさえみな、
巨大な海の怪物からもっとも小さな蛆にいたるまで、
存在することを欲し、
それゆえ可能な限りのあらゆる運動をもって消滅を避けようとしているではないか。
なぜか、樹木も灌木もみな、
見える運動によって滅亡を避けるための感覚を持っていないが、
樹頭の若芽を安全に空中へ伸ばすために大地に根を深くおろし、
それによって養分を吸収し、
そのようにしてそれぞれの仕方で自分の存在を保持しているのではないだろうか。
最後にまた、
感覚だけでなく、
どんな生殖の生命をも持たない物体でさえ、
高い所に昇ったり、低い所に沈んだり、
あるいは中間に浮遊したりして、
その本性にしたがって存在しうる場所で、自己の存在を維持しているのである。
(アウグスティヌス[著]金子晴勇ほか[訳]『神の国 上』教文館、2014年、pp.572-3)

 

引用した箇所を読んだとき、
マタイによる福音書6章26節のことばを思い出しました。
「空の鳥を見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。
だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。」
アウグスティヌスが上の文を書いたとき、
ひょっとしたら、
マタイによる福音書のこの文言を思い浮かべたかもしれない。
そんなことを思い浮かべながらの読書は楽しく。
アウグスティヌスは相変わらず理屈っぽいわけですが、
理屈の底に、
深く静かな情愛が湛えられていると感じられ、
(そういう風景を、初めて読んだときは、見逃していたかもしれません)
たとえば、
ハンナ・アーレントも、この文を読んだのかと、
灌漑も一入で、
やはり、
再読有益なりと言いたい。
ちなみに
「巨大な海の怪物」とは、
旧約聖書に登場する海の怪物レヴィアタン。

 

・着膨れて物思ふ吾は哲学者  野衾

 

文字は文字以前を憧れる

 

のこりわずかとなりましたが、
仕事に関わるものを含め、今年もいろいろな本を読んできました。
なかでも印象にのこっているのは、
『字統』『字訓』『字通』を始めとする、
白川静さんの一連のものでしょうか。
白川さんの本を読んだときに感じる伸びやかさ、広がり、気持ちのよさは格別で、
これって何だろうなと思ってきました。
たとえば、
口偏の漢字の「口」の多くが「口」でなく
「さい(口の字の上の角の縦棒が少し上部に突き出ている。祈りのときに祝詞を容れる)」
であることを、
白川さんはことあるごとに力説していますが、
このことからも知られるとおり、
漢字は、
本来、
呪的なものであると言えそうです。
「呪的」ということばも、
白川さんの本によく出てきます。
その辺りをうろつき、眺めていているうちに、
ふと、
文字は、
白川さんの場合は漢字ということになりますが、
文字以前を憧れているのかな、
ということに思い至りました。
想像は、ますます広がり。
白川さん、楽しかったろうな。
文字以前の膨大な時間、
ことばが、にょろにょろ、にょきにょき、うごうご、たらたら、と~たらり。
「伸びやかさ、広がり、気持ちのよさ」
のもとは、
そこのところと関係していそうです。
白川さんの『著作集』のいくつかは
読んだけれど、
孔子関係、漢字全般に関するものはこれからですので、
来年の楽しみにしたいと思います。

 

・ぎんがぎが玻璃の枯野を眞神かな  野衾

 

何のための勉強

 

東京学芸大学の末松裕基先生から電話がありました。
『春風新聞』第28号のお礼を兼ねてのものでしたが、お礼を申し上げたいのはわたしの方で。
学習院大学の中条省平先生と三人で行った鼎談は、
あとからあとから思い返し、
イメージがそのたびに広がります。
末松先生も、同様の感想を持たれているようでした。
講演に招かれた場で、
拙著のなかの、
たとえば、
諸橋轍次のエピソードを紹介したことを楽しそうに教えてくれました。
諸橋さんが、山形の講習会を終えての帰り、
土地の人が用意した馬に乗って四方の里を見おろしながら進んでいたとき、
ひとりの児童が馬上の諸橋さんを見上げ、
あっかんべをした。
諸橋さんは、
「その児童がかわゆくてかわゆくてたまらなかった。」
そんなエピソード。
末松先生と話をしていて、
わたしも拙著に記したその箇所を思い出しました。
話ながら、
新井奥邃のことばが不意に浮かび。
その場で正確なことばは思い出せなかったけれど、
奥邃の言わんとするところは、
要するに、
勉強は、
謙虚を学ぶためのものであって、
エラくなるためのものではない、ということ。
この世でエラくなるための勉強は、どうやらなんだか尻すぼみ。
諸橋さんの勉強も、
奥邃と同様に、
謙虚を学ばんとするところに最高の意義があった
のではないか。
『老子』の「容《い》るれば乃ち公なり」

諸橋さんは、
幾度も噛みしめたようです。
胸を開いて相手を受け容れることができるか、
そこに智慧が要るのかもしれません。

 

・巾着を揺らし登校冬の道  野衾