聖霊と経験

 

聖霊という概念は、
われわれに対する神の働を説明しようとするものであると考えてよい。
具体的にいえば、
聖霊はキリストを信仰者にまで持ち運んで来る神である。
その意味において、
聖霊は父なる神と子なる神とから(フィリオクェ)発出した
と主張してきた西方教会の伝統は正しい。
東方教会は聖霊を父なる神からのみ発出したとする伝統に立っているのであるが、
キリストから発出したものとして考える西方の伝統に立つ三位一体論
の思惟の方が、
いわゆる自然神学を拒否する方向を示しているものであるといえよう。
聖霊が父なる神および子なる神とその本質を同じくし、
三者が一体であるとの三位一体論は
出来上った形態ではもちろん新約聖書の中に存在していなかった。
しかし、
救の信仰経験が父なる神・子なる神・聖霊なる神を
その働きにおいては異ったものとして経験しつつも、
同じ一なる神の信仰者との出合いであるとする経験は、
新約聖書の叙述する信仰経験に内在しているといえよう。
これが必然的に論理化されたものが、
聖霊を神として告白することを含んでいる、あの三位一体論である。
しかし、
このような聖霊についての告白が、聖霊を思弁の対象にしてしまい、
自己の信仰的経験から遊離した思索に転落するならば、
それは新約聖書の聖霊経験とは異ったものである。
(「聖霊」の項、野呂芳男[執筆]『キリスト教大事典 改訂新版』教文館、1985年、p.638)

 

『随想 西田哲学から聖霊神学』を弊社から上梓した小野寺功先生は、
この本以外の著作においても、
くり返しご本人の経験を書いておられる。
ふつうならば、
とくに学術書となれば、
くり返しを避け、
既刊の書籍を指示する形をとるのが作法かもしれない。
ところが、
小野寺先生の著作物においては、
先生の経験(信仰的経験)が記述の底に厳然としてあり、というか、
地下水のごとく流れており、
それが最大の魅力であると感じられる。
『キリスト教大事典 改訂新版』の「聖霊」の項を担当執筆された野呂芳男氏は、
キリスト教神学者、牧師であり、
キリスト教の土着化についても深く思索を重ねたというから、
聖霊についてのとらえ方が、
小野寺先生と近く感じられるは当然かもしれない。
父なる神、子なる神は指呼できても、
聖霊は、
これと指呼できないところに難しさがある。

 

・炉語りに耳を澄ませば馬のこと  野衾